2009年02月12日

悪食

ダイヤモンドみたいだと思った。
純度ばかり高くてその癖高慢ちきで、どうしたってカチコチの頑固おやじみたいななりをしながら、酒ばかり飲んでいるんだ。
殴られたことだって何度もある。少しくらい控えなさいと言っただけで、どうして俺の好きなものをお前はいつも取り上げようとするんだと言って泣く。それも情けないったらありゃあしない、わあわあ男泣きに泣くなんてものじゃあなくて、さめざめ捨てられた女のように泣くんだから格好も付きやしない。その後、好きなように殴る。私が私だとわからないくらいの顔になるまで殴る。そうしたらニヘェと笑ってまたとくとくと酒をついで飲む。
無為に抱かれたことだって何度もある。なんだか愛おしいのうなんて言っていつも左の鎖骨のちょっと上を悶絶しながらまさぐったりして、少しばかり濡れてきたなぁなんて思ってたら嬉しそうに酒臭い息をのまされる。対して悦ばせられるようなものも持っていない癖に、やけに大儀そうに一仕事終えたみたいな感じでまた飲んでる。
どうしようもないひとだなぁと思う。

ただ、美しい。
あの人は美しい。

よよと泣いているところなんか、まるで劇画からひょういと飛び出してきたんじゃないのかしらと思うくらいに可憐。
あの人は名を蝶々夫人といった。
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2008年03月29日

ええじゃないか

酒を飲んでいるときにふと考える事がある。
ほんの少しのドライ・マティーニと酒樽に満杯のビールがあるとしたら僕は一体どちらを選ぶのだろう。
わずかでも快楽のひと時をこれでもかと味わうのだろうか、それともいやいや流石にほんのこれっぽっちでは物足りない、飲むのなら心ゆくまで飲みたいものだ、なんて思うのだろうか。
そんな事を思いながら一人でふふふ、と笑ったりもする。だっておかしい、何の現実味もない空想をゆびさきで遊ばせているだけで、グラスから酒がなくなったりしているのだ。
とぼとぼよろよろと冷蔵庫に向かって新しい酒を注ぐ。とぼとぼ歩いてとぽとぽ注ぐ。そんなことで大笑いできるぐらいに酩酊していたりすると、とても気分がよい。
さてと一息ついて再び考えてみる。
もしその質問を少年が受けたとしたら何と答えるのだろう。
「せっかくなのだ、美味しい酒を頂こう」なんて若者らしくない覇気のないことを言ってしまうのだろうか。それとも、
「たくさんあるということはいいことだ。苦労と悩み事以外は」なんてちょっとした哲学気どりの言い訳をはずかしげもなくぶって、がっついてはしゃぐのだろうか。
でも僕が少年でないのは、そのどちらにもあるであろうきらきらとした目の輝きだとか、真剣に悩むほほえましい後姿のどちらも出来そうにないからだ。
けれど、老人が同じ質問を受けたらどう答えるのだろう。
きっとマティーニを大事に大事に眼を細めて愉しむのだろうけど、老人だって強欲な人もあるだろうとも僕は思う。
そして次にこう思う。どちらにしろ答えは出ないなら、老人も少年も僕と同じようなものなんだろうか。
それからふと思う。ああ、違う違う。
この中で酒が好きなのは僕だけではないかと。




もちろん続きません。




30分で10分の物語を書いてごらん、
という課題があって挑戦したんだけれども。

無理無理w
30分じゃこんなもんが今の俺の限界のようだw


さあ修正がおわらないぜー
おわらないぜー
おわらないぜー

おわらないぜ・・・
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2008年02月02日

メメントモリ(ex)

総二郎はしゃがみこんで蛙をじいっと見つめていた。
蛙がぴょこりと飛んだので総二郎も釣られてぴょいと飛んでみた。
すると蛙はもう一度ぴょいぴょいと飛んだ。なので総二郎もぴょいぴょいと飛んだ。蛙が畦道の逆方向へとぴょいぴょいぴょい、と器用に飛んでいくので総二郎も負けじとやってみようとしたら、草鞋の端が草に取られてつまずいてしまった。総二郎が立ち上がりながら服のほこりを落とすと、両の掌に赤黒い血がべったりとついていた。どこかすりむいたかもなぁと総二郎はぼんやり思ったが、別段どこも体でいたいところがないので放っておくことにした。また総二郎はちらと蛙を探したが泥に沈んでしまったのか見つからなかったので諦めて家に帰ることにした。「ただいまぁ。」と総二郎が言うとオッカアが前掛けをして出てきて飛び上がるみたいに驚いてこう言った。「アホゥ、あんた。何をしたらそんな阿呆な事になるのかわからん。この馬鹿ちんが。」そして総二郎の頭をぽかりとひとつやった。「なにも悪いことしとりゃあせんが」むきになって総二郎は言ったがオッカアはどの口がいっとるかこのタワケがと言ってもう一つよぶんにぽかりを重ねた。「いいから早よう外に行って洗ってきぃこのアホタレが。服う真っ白にしてくるまで上がらせえせんでな。」オッカアは鬼も裸足で逃げ出すぐらい真っ赤に怒ってそうやって言った。そこでふと総二郎が服に目をやると、そこにはぺったんこになって腹から何本か管が出ている蛙が張り付いていた。「あちゃあ。」と総二郎は言った。蛙が見つからなかったのはここにいたからなのか、と思った。オッカアに玄関を追い出されて総二郎は庭まで小走りに行った。総二郎はまず庭の脇の水道で服を洗おうと思って服を脱いだ。汗がびったりついていて脱ぎにくかったが、脱いでしまえばそろりそろりの風がちょっとだけ気持ち良かったりもした。蛇口をひねってざぶざぶと桶の中で服を揉みこむと、見る見るうちに桶の中の水が薄い赤の朝顔みたいな色になって、蛙がぺろりとはがれた。総二郎はトヨが持っている蛙の玩具にしてやろうとおもった。こぼれている管を丁寧にしまって、前足と後ろ足のねばねばしたえらでくっつけてそれから尻の穴からふうっと空気を入れた。玩具のようにまん丸にはならなかったが総二郎は満足して縁側にまわって居間に入った。「おい、トヨ。」と総二郎が言うとトヨは「なぁに。」と言った。総二郎はうしろで隠していた蛙をさっと出して「これやる。兄ちゃんがつくったんだぞ。」と言ってにかっと笑った。すると急にトヨは泣き出してオッカアが飛んでやってきて総二郎はまたひとつぽかりをやられた。オッカアはかんかんで「よぶんな事しとらんでさっさと真っ白にしてこんか。またよぶんなことしよると、夕飯なしだでなあ。」と叫んだ。みっつもぽかりをやられたのは久しぶりで総二郎もむっとしたけれど、夕飯抜きの方がいやだったのでしぶしぶ裏へまわった。総二郎は半べそでちくしょうちくしょうと、オッカアの顔を浮かべながら何回もごしごし服をこすった。そのうちに服もきれいになってだんだん水も透明なままになってきた。外は夕暮れもぽっかり落ちかかっていたから総二郎は少し寒かった。しようがないのでその蛙の服をえいしょえいしょと着てみたものの、総二郎は何だか余計寒くなったような気がした。濡れたまま家に入るとまたオッカアのぽかりをもらうのは総二郎にもわかっていたので、またしようがなく庭をぷらぷらした。数十分歩いていると、日もとっぷりくれてますます寒くなってきた。風が吹かないところで待とうと総二郎は思って、どすんと縁側に腰かけた。するとくちゅとまた変な音がして総二郎はズボンの尻の中に蛙を入れたままだったのを思い出した。それでもしようがないのでズボンを脱いだ。総二郎はパンツに蛙がついているかどうかみようとしたが、どうもうまく塩梅が聞かないのでパンツも脱いだ。もういっかい蛇口をひねって同じようにじゃぶじゃぶしていると素っ頓狂な声で景ニイが言った。「おまえそんな恰好で何をしとるんだ。」少し震えながら総二郎は今までのいきさつを景ニイに話したら、景ニイは「阿呆だが。阿呆だが。」とじたばたしながら涙目になって笑った。「へそが茶を沸かすっていうんはこういうこと言うんだら」とも言ったけれど、総二郎は意味が判らなかった。でも景ニイはひととおり笑った後、総二郎の洗濯を手伝ってくれた。景ニイは中学生で力が強いので、ものの十分ぐらいでズボンとパンツをきれいにしてしまった。そこで総二郎が震えているのを見つけて景ニイが「なにい。おまえ。なんで震えとんのだ」と言って総二郎の肩を触った。景ニイは濡れているのが判ると「たわけが。風邪ひくぞ。」といってぽかりとしようとした。けれどすぐに総二郎は「今日はもうみっつもオッカアにもらったでもういらんわ。」ともうトヨよりちびっこみたいに甘えた。すると景ニイはふうとため息をついて、総二郎の服を脱がせた。そしてそれを物干しにひっかけて、外套の上を脱いで総二郎にかぶせて二人で縁側に腰けた。外套はほのかに景ニイのぬくもりが残っていて総二郎はぽかぽかした気分になった。まだ小学生の総二郎にはぶかぶかで格好がつかないけれど、すっぽりとおさまっているのも何だか気持ちが良かった。「そういやお前、蛙どこに置いた。」と景ニイが言った。「あそこ。」と総二郎は庭の花壇の端を指差すと、「おみゃあホンマもんのタワケだなあ。あんなとこ置いとったらまた叱られても知らんぞ。」と景ニイはあきれたように言って、縁側から立ち上がった。そしてそれを拾うと、下を向いてぼそっと言った。「蛙なんてぺちゃんこになってもまだ笑えるのお。」「笑ええせんわ。そいつのせいで今日オッカアに何発やられたと思っとるんだ。」総二郎はぬくぬくしながらそう言ったが、景ニイは何にも云わないまま声を出さずに笑った。
景ニイが中学校の屋上から飛び降りたのは、その次の次の日だった。




 読者は針の穴を以てして小説と云う物を読み、目を皿にしてどこかに誤謬の類は無いかと探そうとする。其れから如何にして逃げ、裏切り、叫び、繋げるかと云うのが小説の真髄のまた一つである。と云うのが逍遥先生の論旨であったように思う。だがどうだろう。僕は書けただろうか。諸兄らの目から逃げ、裏切り、叫び、繋げただろうか。否。これには繋ぎが足りない。こういう文を、駄作というのだ。ああ恨めしい恨めしい。迫りくる一般が恐ろしくて堪らぬ。社会も富も名声も怖くて仕様がない。意識せずとも僕はもう既にその輪廻に掴まっておるのやも知れぬ、なんという不徳!何という!嗚呼何という無様な!僕は今日ほど僕を醜いと思った事はない。きっとあるだろうが、僕は今其れに嘘を吐く。僕の遥かな遺書は終わるのだろうか。其れすらも到達できねば僕の生の価値など其れこそ無意味なものだ。荒唐無稽にして雑苦罵乱。未完の筆致になど成れぬ。ああ恨めしい。
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2007年12月28日

メメントモリ(6)

その言葉を聞いた時に僕は愕然としたものだった。僕の憂慮は的中したばかりでなくさらにその僕の想像を超えるものであった。ほんの僅かだとはいえ舞い上がった自分を僕は殺したくなった。同時に恥ずかしさの余り半畳の暗いロッカーかなにかに飛び込んでしまいたいとも思った。しばらく僕は口を利けなかった。彼女はそれを知らずに僕を饒舌に褒め称えた。そうされる度に僕の卑屈で華奢な精神は老人の肌のようにくすんで、がさがさになっていった。彼女はいつもの厳しい顔をこれでもかと崩して、破顔したまま僕の頭を撫でたりもした。僕はやはり何にも嬉しくなくて泣きそうになってしまった。
僕の嘘吐きはここでも烈火の如く才能を発揮した。
僕のことを、塚本女史のその優しさを無下にしてはいけないなどと思った好君子だと思っている諸兄は残念ながら見当違いである。僕は自分の身かわいさの余りに自分を庇護する嘘をその時吐いたのである。
今咄嗟に上のふみを書いて思うが、僕は自分の損得のための嘘を吐いた事は思っているよりも少ないものだと感じた。
嘘を吐くという行為は自分にとって何なのだろうという、常人には理解されがたいような自問自答を僕は思春期の頃からよくしていた。ああまた一つ嘘を吐いただとか、眠る前に今日は一体いくら嘘を吐いただろうとか、そんな事を考えて次以降どうやって辻褄を合わせていかなければいけないかと思案するためでもあった。是がまた中々に難儀なものであって、この艱難辛苦は同族にしか判らないだろうと思うがしかし、端的に言えばそれは浮気の処理等より余程胆力の架かるものなのである。
さて僕はある有名な家紋の出であると嘘を吐いたとしよう。すると僕は一晩かけてその家系を叩き込まねばならない。誰からいつどんな質問・疑問の言葉が投げ込まれるのか判らぬうちには、ありとあらゆる解決策を準備しておかねばなるまい。どうして僕がその一門だと気づいたのか。その一門である証拠はなんなのか。それらに全て円滑に答えられるような知識を持っていなければならないのである。そうすると矢張り新しい嘘がいくつも芽生える。それにまた理屈をつけて同じ作業を繰り返さねばならぬ。
しかしそうしていくと、何故自分はこうして思案しているのだろうと感じるのだ。そもそも僕は嘘を吐かねばよいだろうに嘘をついて自分自身の首を絞めている。全く可笑しな話である。ならば嘘を吐かぬように生きていれば善いのではないだろうか。しかし僕はそんな生き方が出来るだろうか。嘘を吐かぬ僕の話に魅力の華を添えるものなどあろうか。誰にも好かれないのではなかろうか。誰にも好かれないのならば其れをどうして僕は耐えながら生きられるだろうか。そんな事ばかり鼠の風車のようにぐるぐる回るばかりのうちに静かに僕は眠りに就くのである。
勿論例の類は名誉欲の塊のようなものだが、僕は実際そんな嘘を吐いた事はない。それは諸兄らの夢想する嘘の中で最も想起しやすいものであったから追随させただけである。本当に美麗な嘘と云うものは真の嘘吐きにしかわからないものだとはやはり僕も思う。
誰にも迷惑を懸けることなく誰かを幸せに出来るものがその真実にして美麗なる嘘である。僕は僭越ながらにそれを自分のギレコマシイとして今まで生きてきたつもりだ。誰かを笑わせたり驚かせたりするために自分を貶める嘘を僕は何回も吐いてきたし、もう二度と付き合うまいと思った人間のために自分や他人をフィクションの主人公にして奴らの下賤な知識欲を満たしてやったりもした。僕が吐く嘘と云うものは大概にしてそんなものばかりであった。僕は嘘を正当化するつもりはない。嘘は正当でも異端でもない。それが判らぬうちはまだ成熟した人間として添い慕う事は出来ぬのだろうと思う。
だから僕がその時に吐いた嘘はただ無言であることだけであった。
彼女に褒められようが両肩を掴まれて愛でられようが、僕は無機質に笑顔を貼り付けて黙っていた。それが『嘘』以外の何者であろうか。無言とはひとつの言葉である。其れはその状況を以て、了解だという旨を知らせる至高の言葉以外の他でもないに決まっている。
僕はそれを当然嘘を吐いたものとして受け取っていた。ああ僕はここまで慕う人にすら嘘を吐けるのだ、と愕然とも慄然ともしないままただ諦観した。自分はここまで人間としての最低に触れたのかと思うと、諦めの感情のほうがよほど鼻についた。嘘を吐くということがある種類の人間にとっては最大級の侮蔑だと気づくのはもっと後の事ではあるのだけれども、その時に従った倫理感は親から受け継がれた物であったのだろう。僕は幼かった。
塚本女史は僕を、普段会議室に使うような場所に招き、美味しい紅茶と高級そうな菓子を頂いたのだが当然味は覚えていない。
本当の地獄はそれから数日後に始まるのであった。
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2007年12月27日

メメントモリ(5)

兎にも角にも僕は筆を進めた。空白のままでは埒が明かぬばかりか、決まりが悪くて仕様が無い為であった。何をどんな順番で書き出したかは思い出せないが、二枚ほど没にして屑箱に捨ててしまったのはやけに明瞭に覚えている。
僕は作文の授業なんかで書きづまることは滅多に無かった。
これも恥ずかしい記憶の一部で今でも思い出して一人転げ廻るほどに愚かな思い出がある。
それは僅かその頃から一年ばかり前の事だったように思うが、僕は自分が一番愉しかった思い出を纏めろとまた他の教師に言われたのであった。その担任の教師は女性で、それにしてまた厳格で化粧っ気のない素敵なひとであった。僕は理想的な教師といわれるといつもこの人を思い出す。そのまま母性の塊のような人であの頃はまだ若かったように記憶しているが、それはそれは美しい人であった。
僕らが校庭なんかではしゃぎ回って遊んでいるといつも木陰で僕らを見守っていてくれていた。その為に僕らの遊びの危険性は半減し、やんちゃな僕などにとっては物足りなく思う節もあったのだけれど、それよりも何もかもうち投げて甘えられるという恍惚のほうがより勝っていた。僕等は我さきにと新しい遊びを彼女に伝えて褒めてもらおうとし、テストの成績が良い生徒が頭を撫でられるのをまるで、恋人を寝取られた娼婦みたいな厭らしい嫉妬で睨んでいた。
そんな先生に僕は密かに憧れていた。それは恋とか愛とかいう難解な癖に惹きつけられる大人のものではなくて、クリスマス・ケーキの中心にぺこりと座る砂糖菓子のプレートのような、甘いだけの虚構であった。
叱られたくてわざと喧嘩をしてみたり、零点をわざととってから必死に勉強して満点をとってみたり、今思い出すと僕も可愛らしいものだと思う。
その作文の際にも僕は意気揚揚、新進気鋭の趣でそれに取り掛かった。ちなみに僕はその頃から大層肥えていたものだからそれで冷やかされることは日常茶飯事であった。だからという訳かどうか、今となっては染堰も覚束ないが、課題などはやけに張り切って進めたようだ。それで少しでも人心を得ようと思ったのだと思う。依って僕の作文はそれなりの長編となった。少なく見積もっても四百字詰めの原稿用紙に三十は書いた。業務用のホチキスで止められなかったことを覚えているから。
さりとて僕は書き始めてすぐに何かが乗り移ったようになった。今自分が升目を埋めている言葉のひとつひとつが全く見えぬように感じられた。下手の横好きか好きこそものの上手なれか。今でもどちらを信奉すれば善いかなどわからぬが、とりあえず我武者羅に原稿用紙を真っ黒く染めていくだけの作業を僕は狂ったように再生した。
そうして僕が書き上げたものは稀代のフィクションであった。
僕は狼狽した。完全なる嘘を僕は書いてしまった。読み返して視れどもどこにも僕には実態が見えぬ。僕はサッカーなどやっていないし、そもそも試合など行われているのかどうかも知らない。そのくせ僕はどうやらサッカーの試合で大活躍をしたそうだ。我ながらよくもまぁここまで白々しく真っ赤な嘘が書けるものだと感嘆したものだが、そんな事を想い耽っていても仕方がない。けれども慌てふためく僕を余所に終業の鐘は残酷に鳴り響いた。僕は恐る恐るその作文を塚本女史に差し出した。彼女は驚いた様子で大層褒めてくれたのだろうが、全く何一つ僕には思い出せない。
その日の夜僕はまるで寝付けなかった。母に言うこともできなかったし父にも話せなかった。ただ独りで宿題もせぬまま、布団にもぐりこんで震えていたことだけはやけに鮮明に覚えている。その気になれば部屋の配置の何某も全部書き記せるほどに。
翌日、僕に追い打ちをかける様に驚くべき知らせがもたらされた。僕は昼休みの折に職員室に呼び出されたのである。僕はてっきりああばれたのだと思い込んで重い足取りで職員室に向かった。だが気の乗らぬまま塚本女史を探し当てると、彼女はにっこりとほほ笑んでいる。僕は呆気に取られてしまって挙動を忘れてしまったのであろう、塚本女史は僕に座りなさいと促して、昨日僕の書いた妄想長編を取り出した。彼女がその後に僕に伝えた言葉は僕の予想など遥かに超えるほど恐ろしいものであったのである。一語一句間違えておらぬであろう。僕の最悪の記憶の一つであるから。
「あなたの作文が横浜市の代表作文になりました」
彼女は確かに満面の笑みでそう言ったのである。
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2007年12月19日

メメントモリ(3)

小学生となった僕はそれこそ今の僕が最も卑下するような人種であった。勿論その当時には善悪の判断はおろか、倫理感すらまだ完全には形成されていない時期であったから、そこの辺りが人間としてちと軸をはみ出していた。
そう考えれば人でなしであるというのは僕の生来の才であったのかも知れぬ。
太宰先生は人間失格の中でこう説いておられる。「人間の上下というものは基本的に後天的にはぐくまれるものであります。それは恥辱を知り、辱めを受け、罵られて人は賢くなるのです。しかし私は生まれながらにして、人として出来のわるいほうであったために、その権利すらおこがましいように思うのです。」
全く以て反論する気が起きない。幾らか愚息なれど頭の中で試行錯誤をしてはみたものの、彼の言葉に否定できるものは一つもないのである。この言葉は、僕の精神成長において正に青天霹靂の礎、憧憬爛而の鏡となったのは間違いなかろう。
この文節を否定できるものはあるまい。どうしたってこれは真理の氷山の一角なのであって人間はそれにつき従うことしかできるはずはない。巷で本ばかりに免罪符を求め落果する輩がいるが、あんなものはそこらのタブロイドと代り映えがしない。すべて自分の主張だけを通したいばかりで、太宰先生をろくに読むことすらしていない。物書きとは一概にしてそういうものばかりだ。僕も抜け切れているかは選螺出来ないけれども。
本というものはただ読めばいいというものではない。
不肖僕自身も陳腐な文をだらだらと書いているわけだが、こんな物は、なんでもない。
本なんて言うものは書きたいやつが書くのだ。自分のエゴを我儘を外に認めてもらうたった一つの評価される道具なだけである。音楽なんてものは調子や和音にどうしたって制限される。ボーダレスの音楽なんて本当はないのに愚衆は恥ずかしげもなくそんな事を云う。僕はそんな奴らを見るといつだって、どれだけ飲み過ぎた翌の朝なんかより余程胸焼けがするのだ。
そんな我儘放題にされると人間というものはわりかし豹変する。何でもいいと言われるとそれこそ何もできなくなる。だからこそ彼らは暴走するのである。狂ったように眼を血走らせて、それこそ足は弱い地震のように絶え間なく揺れ利き手でないほうの手は側頭部にいつも置かれており、頭をかいたり机をどんと叩いたり原稿を破り捨てたりする。苛立ちに唇は震え髭なんて板垣なんかより余程汚らしく不精に並ぶ。
そこまでして尚書きたい事の十の一、二十の一が書けたら万々歳なのである。物書きとはそういう世界だ。
綺麗に片づけられた部屋で清潔な部屋着のまま、お高い紅茶と革張りの椅子に座って、当座の退屈を凌ぐだけに読むものの云う事など、一転当てになるものか。僕にはそれがもどかしい。
反落し荒廃しゆく精神を、その瑞々しく溌溂とした精神を持って消化しようという者は今どれだけいるだろうか。僕を含めて、どれだけいるだろうか。
その人間の全てを以てして、何某かの膨大なる記憶を甘受しようという若者は今どれだけ本邦に存在するだろうか。僕がいま危惧するのはそれである。崇高な自分のエゴを高邁たる言の葉に乗せるその情熱に報いようとする人はどれほどのものか。
最近の文人にはその誠意が足りない様に思われる。理解することを放棄した彼らの言の葉など、狂乱も衰退も暴走もない彼奴らの言の葉など、空疎で何も感じられぬ。人間としての情感など半寸も感じられぬ。

ともかく太宰先生の格言は、実に的を得たものである。これを判らぬ人間はいない。気づいている人間と気づかないふりをしている人間がいるだけである。僕も先達と同じ様に出来の悪い人間であった。だからこの現実に気付いていても誰にも伝えられなかったのである。僕は人様にご高説を垂れるような上手の人間ではないから、おこがましくて居心地が悪くなる。
しかしこれは僕の本である。僕が書くのである。僕の狂乱と生命を以てして、必死の叫びを諸兄らに届けることを約束しよう。

小学校も真中あたりのころ、僕の担任は種木という人になった。二年毎に担任の先生が変わる仕組みであった。その人は実に学内からも学外からも一目置かれる教師であったようで、その名を出せば、親は諸手を挙げ教師たちは戦くのであった。僕自身はそれを歯牙にかけることは特にした記憶もないけれど、クラスの中心にいる様な人らはその後光を大変有難く思っているようであった。
種木先生はその人懐っこさから児童特有の鬱陶しいちょっかいにもへらへらと笑いながら、一緒になって遊んでくれるような優しい人であった。僕はその頃、今のようにひん曲がったりもしていなかった分とても内弁慶な子どもであったから、無邪気に先生に絡みつく同輩たちを羨ましく思うばかりで自分からは何もできなかった。

その僕の内弁慶さも母の教育の弊害であった。僕が母の愛を、重責を知ることになるのは当然もっと後のことなのだけれど、贔屓目に見ても僕に対する彼女の姿勢は異常であった。彼女は僕を愛するあまりに甘やかしすぎていた。僕が気まぐれに欲しいというものは全て買い与えたし、僕がこねる駄々を僕自身が当惑するほど長く我慢し、その殆んどを許してきたりした。それは当然幼い僕の増長となり、結果僕は歪んだ世界観を持つことになった。
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2007年12月15日

メメントモリ(2)

僕は生来の嘘吐きであった。
それは、人々が先天的に与えられる何某かと全く同じようなもので、例えば運動の勘であったり絵心だったりするように、誰の責もなく気儘に犯されて生まれるものだと僕は感じた。
僕は生まれ持って絵心というものがとんと見当もつかぬ。僕にはゴッホの絵も誰かが話ついでに珈琲でもすすりながら、ナプキンに描く絵とのその美術性の違いが判らぬ。僕にはどちらもただの線と点と色と、ほんの少しのリアリティと濃さの違いを以て、違う芸術もしくは陳腐な模様としか判別されない。
人はそれを色盲だと笑うか。笑えば善い。僕にはその種類の能力がないのだから卑下されて然るべきなのである。

だが僕は生来の資質素質の類は後天的に成長もしくは縮小、歪曲されることを知っている。僕は齢二十年と少し、幾らかの人間を見てきたけれども、その誰も僕より嘘吐きであった試しがない。それは僕が奇嘆な才の持主であったと考えることも出来るが、僕はそんなに大それた人間ではないことを僕自身で識っている。証拠に僕は僕ほどではないにしろ嘘をたらふく吐く人と何人かそれなりに懇意にしている。それはとても卑小な嫌悪すべき同族への慰留感情であるのだが、本能が理性を担ぎ揚げてどこかにほっぽり出してしまうものだから、僕はそれに従わざるを得ない。僕の最も得意な言い訳の一つは是である。嘘吐きはみんな同じ匂いがする。誰かの言葉の尻っぱしを遠慮もなく鷲掴みにして、それならばという魂胆が見え見えで、厭らしい。

だが彼らはまるで幼子の寝小便のような儚く萌える一夜の夢、可愛らしい嘘しか吐かぬ。そんな嘘しか吐けない。嘘を吐くのに必要なのはある一定量の諦観である。彼らにはまだ度量が足りぬ。ああ僕は今嘘を吐いたと思う瞬間に、その刹那、他人を排除できるかどうかの判断でしかそいつが大嘘吐きか雑魚かを識べられるものはない。周りの稚魚はこの辺りが浅はかで、僕は溜め息ひとつ漏らしてまるで意中に無くなる。
僕が自らをれっきとした嘘吐きだと自覚し、また尊厳とは成り得ないまでも一つのある種僕を他人と判別させる特徴として認可させることが出来るのには大きな一つの分岐点がある。

僕の家族は平凡な物である。下層に尋ねれば羨望の眼差しを貰い受けることになるだろうし、上層の者にとっては取るに足らない小さな家であったろう。父は何と言う事のないサラリィマンで、その誠実さを以て小さな会社で大人しいしかし安定した給与を受けて、真面目にそれを家に送る人であった。僕は幼い頃にまるで女児のように可愛らしいと囃されたりしたものだが、成長期と青春期を経る間に自分でも頷くほどに父と瓜二つになった。僕は別段それを厭うことはなく、また自慢に思うこともなかった。それは今でもない。そんな父は世間一般から見れば、真面目で正直な働き者としか見られないだろう。ユーモアもそれなりに備えた可愛らしい人なのだけれど、きっと家族にしかわかるまい。
母は簡単に描写すれば、幼い人だった。
無知で、それでいて自己主張があり、物を深く考えることの出来ない人であった。物心着いて直ぐにはそれをもどかしく思ったりしたものだが、ほんの少しの成長の間に僕はそれを無機質な性質の一種だと理解するようになった。彼女は甘かった。特に僕に対しては、創作の母などより余程ねんごろに愛を与えた。それが僕の世間知らずを加速させることになったのだから、僕は感謝しつつも矢張りそれを恨まずにはいられない。僕の嘘を吐く才はそんな環境の中でむくむくと肥大していった。今思えばそれはパズルのように、難解に見えながら実に単純に方程式に嵌るのであった。
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2007年12月12日

メメントモリ

僕は嘘吐きだ。
だがしかし、僕は自分の嘘を吐くことを恥ずかしく思うところはない。勿論、誇るところも殆どないけれど。
それが僕を構成しうる特徴の一つであるならば、僕はそれを愛でこそすれ、阻むことなど考えてはいけないのだ。
それは太陽が昇れば沈むような、その日にあたる自分が居るのならば影がそろりと伸びるような、そういう存在同士でなければいけない。
僕が嘘を構築したように、嘘が又僕を構築する要素である。それを否定することはすなわち、僕の生き方そのものの足取りや記録というものをそのまま否定することになりかねない。
こうして僕は生きていかなければならない。嘘と云うジレンマを抱えたまま、それが而して僕の中に融合してまた僕となる。
幼き子が母親の乳を吸って体躯を羽ばたかせるように、僕もまた嘘を齧りながら皺を重ねていかねばならぬ。

これは僕の遺書になれば善いと思う。
だからこれは僕の正直で書かねばならぬ。高が二十を其処らか超えたばかりの若輩者に書けるのかという危惧もあろう。しかし、書けるのかではない。書かねばならぬ。書かねばならぬと僕の正直さが伝えている。
しかし全体、僕の正直さとは如何なる性質を含むものであろうか。僕は自他ともに認める嘘吐きである。数え上げれば枚挙に暇がないほどに、僕の人生は嘘で塗り固められていると言ってもよい。
その僕の正直さとはそれそのもの自体が存在し得るのだろうか。
存在させなければいけないのだろうと僕は思う。今まで述べたように僕の人生とは嘘と共に歩んできたものであって、それを否定することは僕を否定することになるのだから、僕はそれを存在丸ごと飲み込んでやらなければ、この書の意義は失われる。
ならば僕はそれをどこに求めようか。嘘とは立脚されるものである。発生し派生し対象に影響を及ぼした上で、最後に認識されなければ嘘というものは機能しない。僕ひとりの関係では僕は嘘を嘘として機能させることが出来ぬのだ。
嘘というものは不思議なもので、それ自体では何も実態を持たぬ。それが現実、思考世界にしても精神生活にしても、社会・世界を含む人間の中に確りと息づき、その人間がそれに呼応しなければ嘘というものは僕らに認識されることはない。逆に言えば、そうすることによって漸く嘘は嘘として、僕等に目視されると言っても善い。
ならば嘘つきの僕が正直になれる、そんな矛盾が等記号で証明され得るのではないか。それには深遠な井戸の佇みの如く、僕の中に僕は深く潜って逝かねばならぬだろう。僕は僕と契約を結ばねばならぬ。嘘を吐く僕とそれを認める僕を、もう一人の僕は観察し記録せねばならぬ。
これを自己啓発の類と邪推する諸兄もあるだろうがそうではない。この流動の断続に他者は存在することを許されない。僕は僕として僕の嘘を見破りその僕の嘘を包んでやらねばならないのだ。
ただ観察者として諸兄らは僕のあくまでも外側に居らねばならない。僕が正直にものを書くとはそういうことであろう。

これほどまでに僕が何故他者を拒みつつ、他者でいることを強要するのか。それはまた僕の嘘に一つずつ解き解して遣ることでしかわからぬだろう、否、それでもまだ確信は持てぬ。
ただ僕は僕の正直なやり方で嘘を連ねて往かねばならぬ。
メメントモリは燦々と僕の中で燃えている。ああこの握漠とした精神を誰にも犯されてはいけない。さらば僕は始めねばならぬ。
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三人の女

お琴は夕闇の是非を問うていた。
如何して人間というものは夜になれば疚しい事が出来るやもと妄信しておるのだろうか。灯りが無くなるから、誰も自分だと判るまいと思うのかも知れぬ。それなら、誰かの仕出かした手先の悪さを枷にして、有耶無耶にしたいと願っているのだろう。ならば女は惨めだ。陰溂で卑猥で、浅慮克明な浅はかな生き物に成り下がる。畜生とまるで同じように、誰の手かも判らぬまま辱められ弄られ、誰の陰茎とも判らぬままそれを咥え、誰とも判らぬ男を自らの嬌声で悦ばせているのか。否、まだ畜生の方が勝手がいいかも知れぬ。
夕暮れになると何時も太股の内側が疼いて堪らない。あけび姉さんに相談したりもしたけれど、姉さん曰く、古来から窪みは埋められると決まっている、それと同じさ。お琴はまるで狐に化かされたみたいにはたと覚えが付かなくて、姉さんあたしは馬鹿だから、判らなかったわと聞き返した。あけび姉さんは八の字に垂れた両眼を益々深く沈めて声を出さないまま笑った。お琴は善く、そうされると旅籠中に笑われているような気持ちになる。自らの愚鈍さと浅薄さを合財見透かされているように思うからであった。それは年端も往かぬ財閥の御曹司なんかに下手糞に愛されるよりも余程恥辱に塗れたものの様に思えた。お琴が奉公人みたいに間誤付いていると、あけび姉さんは煙管を口に含んだまま、穴には棒が入って来なきゃあ塩梅が利かないようになっているの、と言った。お琴はそれを聞いた途端、姉さんの謎掛け問答を理解したつもりになり誇らしげな気に体を浸食された。そして頭の真中が、薔薇の花弁を一枚ずつ解かれていくようにふやけて逝くのが体感されて情に濡れた。









なんだこれ?
いやきっと続きません。
気に入ってはいるけどさ。
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2007年12月03日

カミサマになろう その2

俺は別段驚きもしなかった。何が当然に起こる事で、何が起こりうるはずのないことなのか。その仕組みがまるでわからなくなっていたのだ。
それが俺にとっての酔うということだったから。
「そうだよ」
「ま、そうでしょうね」
「判っていても聞くのかい」
「それが貴方たちの中での礼儀なんでしょう?」
きょろきょろと周りを見回しながらそいつは言った。
「ならさぁ」
俺は自分が酔っていると確信していた。頭ではわかっているのだけれど、口と頭が思うように連結しない。大抵、自分はいつもこの辺りから記憶が曖昧になるのだ。気付けば、もう何もかもが自分の良きほうにしか進まないような、そんな論拠のない優越感が勝手に自分の口を動かしていた。
「勝手に人様のお宅に上がりこむってのは、無礼だとは思わないのかい」
「それもそうでずね」
まるでこちらの事など意中にないような素振りで、まだそいつは周りを見渡している。
俺は腹が立ってきた。
その不審者に対してではない。自分が蔑にされているという事実が、今の俺には耐え難いものであったからだ。
「こっちを向けよ、おい」
俺は思わず怒鳴ってしまう。それでも、そいつは特に慄いた様子もなく、ちらりとこちらを向いただけだった。その様子にまた俺は苛苛したが、呂律が上手くまとまらなくて、次なる怒号は口の中で全て萎んでしまった。
「まぁいいや」
俺は諦めてグラスを傾けた。しかし中には僅かな雫が残っているだけだった。
「おい、お前さ。冷蔵庫から―ああ、そこの奥の奴だよ―焼酎と氷とウーロン、取ってくれ。あとグラスも」
そいつは何秒か俺をじっと見て、大人しく冷蔵庫へと向かった。すぐに、まるでどこぞのバーみたいにきちんと指示したものが俺の前に並べられた。
「どうも」
と俺が会釈すると、
「いえ」
とそいつは軽く応えた。
新しいグラスをに氷を運び、絶妙の具合に焼酎とウーロンをブレンドする。一口すすると、慣れ親しんだ下世話な芳香が鼻をくすぐるのがわかる。ついで、喉の内側からリンパ線に掛けて、何とも表現のし難い熱気が広がる。この感覚を嫌がる人は多いけれども、この感覚こそが焼酎の醍醐味であると俺は思う。
「それじゃ、本題に入ろうか」
半分ほど開けたグラスをテーブルに置き、俺は切り出した。
「まぁ、まずは座れ」
「はい」
そいつは、テーブルを挟んで俺と向かい合うような形で素直に座り込んだ。男のくせに、あの、足をハの字に広げて、まるでストレッチでもするような座り方をした。
奇妙に思うには思ったが、それを問い詰めるのが一番ではないことぐらいは最低限わかった。
「あんた、誰」
「私は別に名乗るほどのものではありません」
「そうかい」
「そうです」
なんだか調子の狂う奴だ。
酔っ払いきったニューロンたちが精一杯論理的な思考を持ち上げて、様々な疑問符をこいつにつけるのだが、どうも自分にはそれらを突き詰めるのが億劫になってしまう。
「じゃ、名前はいいや」
「いいのですか」
「俺がいいったらいいんだよ。この家は俺の家だ。お前はそれに従え」
「わかりました」
また悪びれもせずに、そいつは平然として応えた。
「質問を変えよう。お前は、誰なんだ」
「それは難しい質問です」
「そりゃそうだな。名乗りもせずに、人の家に勝手に上がりこんでるような奴、俺にも良く判らんよ」
そう言って俺は笑ったが、そいつは特に憤慨する様子もなく、また興味もないようだった。
「じゃあ、お前がここにいる目的は何だ。強盗か、こそ泥か、それとも、間男なのか」
「どれも違います」
「だったら何だ」
「私はこの家にも、貴方の奥様にも、もちろん金銭にも興味はありません。用があるからここにいるのです」
「一体誰に用があるんだよ、こんな時間に」
「お解りになりませんか。貴方に決まっているでしょう」
そいつははじめて感情の色を出したが、それは怒りとか悲しみとか、そういった類の感情の方向ではなくて、酷く消極的な「呆れ」という感情が少し覗いただけだった。
「俺に用ってのはなんだ、俺を殺しにでも来たのかい。俺を殺して一体全体どんな得があるって言うんだよ。そもそも、俺を殺そうとするような奴ってのは、誰なんだ。真っ白のまま生きてきたとは言わないが、殺されるほどの恨みを買った覚えはないんだがね」
酔って気が大きくなってきているのをいいことに、俺は一気に捲くし立てた。壁一枚向こうで妻や息子が寝ているという事もお構いなしだった。
「別に殺そうなんて思ってませんよ」
「じゃあ、誘拐か、拉致か」
「それに近いかもしれません」
「はい?」
俺はそいつの飾りっ気のない、突然の犯行声明に面食らって、少しの間言葉を失ってしまった。
一体こいつは何を言っているのか。
そんなことを言われて、俺が素直に従うとでも思っているわけでもないだろう。
他にもいくらかの矛盾の綻びが頭を締め付けたものの、やはり酔いはそれよりも強いようで、何も考えられなくなった。
「嫌ですか」
「当たり前だろう」
「困りました」
「困ってるようには見えないけどな」
茶化して俺は笑ったが、やはりそいつは特に笑うわけでもなく、狼狽するでもなく、そのまま座ったきりだった。
「というか、俺なんか誘拐してどうするつもりだよ。自慢じゃないが、俺の家族からの身代金なんて高が知れてるぞ」
「だから、金銭ではないのです。私はそんなものに興味はありませんから」
「そうかい」
俺は一気にグラスの中の残りを飲み干した。もう、何もかも考えることが億劫になったのだ。こいつが何をしたいのか、正直今の自分には全くわからない。それは俺が酔っているからなのか、それとも人間としての知能自体、どこかに置いてきてしまったのか。それすらも考えたくなくなった。
「もういいよ。わかった」
「同意して頂けると」
「そう解釈してくれていい。もう、本当に、面倒だ」
「はあ」
「でも俺には仕事もあるし、この通り家庭もあるんだよ。いつもいつもあんたの気まぐれには付き合えないぞ」
「そこの辺りはお任せください」
こいつは、本当に。
「任せてくれって、あんた―――」
そこで俺は初めてまざまざとそいつの姿を見た。几帳面に七三に分けられた黒髪が、ジェルでびっちりと撫で付けられていて、面長の顔を、さらに尖らせて見せている。典型的な狐目の割りに、睫毛が異様に長くて、まるで動物のような、そんな表情を演出している。コットンのような素材の開襟シャツをしっかり一番上までボタンをつけて、えんじ色のオーソドックスなタイをこれでもかと云うぐらいに締め上げている。私立の小学生の制服みたいな、ちぐはぐな様子だ。
俺にそれが既に可笑しいとも思わないようになっていた。
「呑もうか」
俺がグラスを掲げてそう促すと、そいつは小さく頷いて受け取った。今はそれでいい。
どうせ夢なのだから。

翌日、気がついたら俺はベッドにいた。
あの状態で自分がきちんと部屋に戻るとは考えにくかったが、今こうしていることが動かぬ証拠だ。仔細は勿論全く記憶には無いけれど、人間の習慣と云うものは侮れないものだと、そんなことを俺はしみじみ思ったりもした。
リビングに出ると、昨夜の騒ぎがまるで嘘のように、いつも通りの我が家が展開されていた。
「おはよう」
妻がいつも通りに挨拶をする。挨拶を返しながら横目で食器棚を見ると、彼女のお気に入りはそのままの状態できれいにそこへと収められていた。
「賢は」
「まだ寝てる」
「いいのか」
「勝手に起きるでしょう」
「大丈夫かな」
「子供じゃないんだから」
妻はそう言ってかすかに笑った。俺は笑うことが出来なかった。そんな単純な成長すら、自分には認識できなかったのだ。
自分の罪深さは、死んだら地獄行き所では済まないだろうと、痛感した。
以前にも似たようなことがあったな、とトーストを齧りながら思う。あれはまだ賢が生まれる前で。
まだ四宮さん、小笠原さん、なんてお互いに呼び合っていた頃だった。妻の父はとても厳格な方で、言うなれば上家のご令嬢だった彼女を目に入れても痛くないというような、そんな典型的な頑固親父だった。無論うだつの上がらない自分のような男に娘をやるというのにも、一筋縄で了解がもらえるはずも無く、足繁く四宮家の門を叩いたものだった。その度に追い返され、時には罵倒されたりして、何度も何度も懇願した挙句、ようやく自分たちの結婚は成立したのだった。そんなものだから、やはり最初の頃には折り合いが上手く掴めなかったのだが、子は鎹とはよく言うもので、賢の誕生が自分たち夫婦の絆を深めるのと同時に、また義父とのわだかまりも溶かしていったのだった。俺はそのときですら、仕事がなんだと言い訳をつけながら毎日飲んで歩いていた。実際それは言い訳の中でも高貴なもので、実際、仕事で成果を出すことが、義父に認めてもらう最良の手段であったことは疑いようが無いのだ。
それでも彼女は、自分にはわからない重圧と責任の中で、一番近くにいるであろう頼れる人間に逃げられてしまっていたのだ。それは、どう考えても残酷な仕打ちでしかない。
自分は夫になれてなどいなかったのだ。
穂花がいつものカップに珈琲を入れて、俺に手渡しながら向かいに座った。改めて見ると、老けたものだ。当然といえば当然なのだろうが、この皺の何本かは自分が刻んだものに違いないと思うと、胸が苦しくなった。
「そろそろ出る」
「うん」
出された珈琲に俺は殆ど手をつけていなかった。
靴を履くとき、特別な日でもないのに何故か穂花と今生の別れのような気がして、胸騒ぎがした。
後ろで立っている彼女から鞄を受け取ったついでに、俺は口を開いた。
「今日は早く帰るよ。久しぶりに二人で飲もうか」
彼女は驚きのあまり少し眼を見開いたが、すぐにいつもの柔和な顔に戻って、心なしか少し寂しそうに笑いながら呟いた。
「うそつき」






まぁ続きますけどね。


先日のOB会の話も書きたかったんだけどね。
今日書くと、絶対野球の話に汚染されるなーという
器具もあったりしました。

というか、
最近パソコンの誤変換が多すぎていらいらします。


語彙堅固感想、
ってありえなくない?(ご意見ご感想)

ご意見・ご感想どしどしお待ちしておりますですわよ。
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2007年11月27日

カミサマになろう その1

カミサマになろう




喉を微炭酸が駆け抜けていく。
ほんのささやかな贅沢なのに、自分の体がまるで今生の僥倖を獲たかのように喜んでいるのがわかる。一息で半分くらい飲み干して、俺はやっとジョッキを置いた。くあぁ、としまりのない嗚咽が意識せずともこぼれてくる。
「しかし、これだけは止められんな」
「ほんにそうですな」
韮山が相槌を打つ。彼は会社の後輩で、最近大して飲めない若手が多い中で唯一中々話がわかるやつで、それが新人歓迎会であらわになり、元々呑んベェだった俺が目をつけたということだ。それから、家族サービスと仕事に追い回されてろくに相手もしてくれなくなった同期を尻目に、彼を連れて飲み歩くことになった。韮山は昨年の暮れに、入社五年目という何ともいえないタイミングで、長年付き合っていたという彼女と籍を入れた。それまでその女性のことは度々酒の肴になってはいたものの、古い考え方の自分の中ではやはり、少しばかり早いような気がしていた。だから何度となく、もう少し考えてみたらどうだ、と俺は提案した。五年目といえば、出世のラインに乗るかどうかで非常にナーバスな時期である。もちろん、所帯を持ち、それをモチベーションとして仕事に打ち込むという考え方も可笑しくはない。けれど、新婚の家庭と云うものは色々な負荷がかかるのも確かなのである。親たちは、やれ孫はいつだとかしましいし、妻は家の周りのこと、近所付き合い等々、やおらわかるはずもない事柄を何でもかんでも相談に来る。結局のところ、こちらの意見なんて参考程度にしかならないと思っているくせに。そんな諸事情を抱えこんで、仕事を今以上に気張るなんて壊れてしまうだろう。
まして、見事に出世コースとは無縁の俺と飲み歩いているぐらいなのに、そんなキャパは韮山にはない。
俺は老婆心ながら、本当に他意はなくそう諭したところ、韮山はしれっとして、
「オガさん、そげなこと言って、一緒に飲みな行く人ばおらんくなるで寂しんでしょ」
なんて言ってのけた。これには俺も閉口してしまったが、よくよく考えれば、本当にそんな気はなかったとしても確かに、結果としてそういったことは起こりうる。違うよ、と韮山には言ってみたものの、想像してみたらぞっとしたのも確かだ。韮山は、焼酎のグラスを転がしながら、あっぢのお父っさんもそろそろヤギモギしてっしなぁ、と一人でごちていた。
それが昨年の真夏だった。考えてみれば、半年間のブランクがあったというところからも韮山がそれなりに自分の意見を真摯に聞いてくれたということにもなる。
「しかし、こう馬鹿暑っちぃときのビールってのは、これ良からんとですね」
「何がだよ」
韮山は早くもネクタイを緩めて、リラックスしきっている。
「何も考えられんくなるとでしょう、こいつに心奪われるきに」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
俺は笑って軽くいなして残りのジョッキを飲み干した。それでもまだ韮山は口を閉ざそうとはしなかった。
「真昼なんか、外回りに行ぐっつって社から出た途端にもう、呑みたくなるとです。それをもう目いっぱい我慢して我慢して漸く戻ってきたと思っだら、次は終業が気になってしょうがない。結局、仕事なんか手に付かんとですよ」
「はは、わからんでもないけどな」
軟骨のから揚げと一緒に二杯目のジョッキを受け取る。今までずっと凍らされていたようで、手に取ったときのひんやりとした感じが気持ち良い。この感覚だけで、気持ちがすぐに楽になる。今風に言えば、テンションが上がる、とでも言うような感覚。
「そんな事言って、きちんと稼いでこなかったら奥さん、実家に帰っちまうぞ」
「そん時はそん時ですよ」
「馬鹿野郎。新婚の癖に生意気なんだよ」
そう言って軽く小突くと、韮山は悪戯っぽく笑って追加のビールを従業員に頼んだ。
確かに、韮山の言うことにも一理あるといえばあるのだと思う。
この場合には酒と云うジャンルということもあって呑む人種にしか共感はされないのだろうけれども、何か他事をやっているときに、自分の好奇心をくすぐられる様な物が目の前にぶら下げられたとしたら、それを忸怩たる決意を以ってして否定することは誰にも難しいもののはずだ。
それが酒だというだけで、ここまでも品格が落ちているように思えるのは誰の所為なんだろうか。
「小笠原さん」
背中から甘えるような、くすぐったいような声がする。
萩野だった。いわゆる「イマドキ」の女の子で、髪を巻いたり爪を飾ってみたりだとか、いつも忙しなく流行を追いかけたり、逆に流行に引っ張られたりしている。彼女曰く、それは上司の御機嫌を伺うのと同じ位の暗黙の了解の処世術だという。女社会と云うものの中には、ヒエラルキーの変わりに帯同性が流布しているらしい。
「遅かったじゃないか」
「私は残業だってあるんです。誰かさんと違って呑んでばっかりいられないんですよ」
皮肉っぽくそう言って荻野は俺の隣に座り、韮山のビールを持ってきた従業員に、入れ替わりで手早く生を頼む。
「そういえば、経理の佐々木さんが明日呑みに行かないかって、小笠原さんに」
「俺に?」
荻野は一番上のシャツのボタンを外して、軟骨をひょいと手で摘んで口に放り込んだ。剛毅なところがある女なのだ。
「何で」
「さあ。私に聞かれても」
「呑むんなら、君とデートのほうが愉しいだろうに」
「私、受け口の人ってもう、どうしても無理なんですよ」
「何も抱かれろって言ってるわけじゃないだろう。呑むぐらい構わないじゃないか」
「いや、本当にもう、生理的に駄目なんですって。その時だって、私必死に顔を見ないようにしてたぐらいですよ」
韮山がひとつため息をついた。理解が出来ないといった顔つきだった。
「しかし、呑むんなら君らも一緒に―といっても荻野は辞退だろうけど―とかそういう誘い方だったんじゃ」
「それが、そうでもないらしいんですよね」
口元に付いた泡を手の甲で拭いながら荻野が続けた。
「何でも折り入ったお願いがあるんだとか言ってましたよ。私も早く切り上げたかったんで詳しくは聞いてないですけど。結構、切羽詰ってるカンジでしたよ」
「なんで俺なんだよ」
「だから、わかりませんって」
荻野は会話をこれ以上続けさせないように、ぐっとジョッキを傾けた。思い出すのが億劫でしょうがないだというような素振りだ。俺もそれに釣られてジョッキを口に運ぶ。
その後すぐに、韮山と荻野は共通の趣味であるアメフトの話題に花を咲かせ、その間俺は蚊帳の外になったので、ぼんやりと佐々木さんの件について夢想していた。
佐々木さんは新世紀開発部署の主任で、俺の何年か先輩の社員である。新世紀開発部、など大層な冠が載っているにはいるのだが、実態はただの姥捨て山で、若いやつらの中には、リストラ待機部とまで呼んでいる奴もいる。そこで勤続の半分を過ごした佐々木さんと、営業畑でうろうろしている俺の接点は殆どない。唯一、月の会議で顔を合わせるぐらいなのだが、大体の場合出来るやつらがワンマンで進めてしまうので、お互いにどうというものもない。
考えども考えども、整合性のない話だ。どうにも見えてこない。
そんな事を考えながらちびちびやっていると、ついつい時間が経ってしまっていた。それなりに賑わっていた店内も、今では我々のテーブルを含めて数グループしか残っていない状態である。韮山も荻野もいい塩梅になっている。
数分して、我々はいつも通り勘定はしっかりと三等分し、店を後にした。乗りなれている終電の中にも関わらず、悩み酒は根が深いとはよく言うもので、じわりじわりと酒が利いてきて、嘔吐感が体中を襲った。高々二十分そこらの道程ではあるのだが、倦怠感と酔いとで、下車の時にはへとへとになってしまっていた。
帰り道を歩いていると、夜も遅くということでそれなりに涼しかった。酔いもそれに乗じて落ち着いてきたようで、不快感も少しずつ薄まっていった。
当然寝静まっている我が家に着き、その静謐を荒々しく破った。こんな時間まで働いていたわけでないということを家内も子供も判っているのだから、逆に遠慮がなく振舞えるというのも皮肉なものだと思う。
家族を顧みるということは、こんなにも大儀なものだっただろうか。
二年間交際し、一年半同棲し、順調に愛情というものを膨らませていた筈であったのに、苗字が一緒になった途端にそれは心の安息を保護するものでなくて、養わなければいけないという重圧となってしまった。お互いの愛情の量が変わったわけではない。むしろ、量が変わっていないだけに、形態の変化は厳しかった気がする。俺は家庭の充足のために働くことを半ば強制され、妻はその家庭を守り子供を育てる、その仕事を強制された。それは二人の愛情ゆえのものだったのは疑いようもない。どちらにも何の非もないのだ。
子供も中学に入った今では論理的な思考が出来るようになり、この構図に気付き始めた。自分がピアノをやらされているのは妻の仕事の息抜きの結果であり、ろくに夕食を共にしたことがないのは、外で呑んだくれて帰ってくる父の息抜きの結果であること。その隙間の中で、自分が子供としての役割を演じなければならないという仕事があることにも。
賢にももちろん罪はない。むしろ、一番の被害者は賢なのだろう。
そんなことを思いながら、リビングの電気をつけて冷蔵庫へと向かう。
家で飲む酒はまたひとつ味が違う。
美味いわけではない。ただ、自分の領域で誰にも何の気兼ねもせず呑む酒は心地よいのだと思う。
酔ってよいのだ。
期待も責任も、資本主義も運命も、全部投げ出して脳内の磨耗に待ったを掛けることは、人生において一番の娯楽である。まして、誰にも迷惑をかけずに自分ひとりで成立する、至福の瞬間。
雌伏し雄飛するために、必要な物だとさえ感じる。
ウェッジウッドのワイングラスにワインを注ぐ。とぽとぽと落ち着く音色が断続するたびに、深い真紅の円が揺れる。個人的な推測だが、この美しさを愉しむためにワインのテイスティングが考案されたのは必然だったようにしか考えられない。
ゴルゴーダのチーズを口に含み、ワインを少し流し込む。芳香な二種類の香りを酔いがいい具合にかき混ぜてゆく。
気がつけば、ボトルを空にしてしまっていた。酩酊してはいたものの、自分で驚いた。片付けなければ明日の朝も面倒なことになるのだろうが、それよりも頼りない感覚で、妻のお気に入りを破損するほうが余程面倒だと俺は判断した。
やるべき業務がぽかんと無くなってしまったので、また気が抜けて酔いがさらに回ってきた。ソファーにより深く沈みこむと、牛皮の程よい硬さが、火照った体を優しく包み込んでいくのが判る。

その時その瞬間に、俺の運命は完全に捻じ曲がった。
ワインをもう一杯だけ控えていたら。
グラスを片付けにキッチンまで行っていたら――。
いや、何をどうしていようと俺の運命は、どうにもならなかったんだろう。
「貴方が小笠原さんで宜しいですか?」
この声が、全ての始まりだったのだ。
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2007年10月02日

ユレロ・ボレロ

待ってた人も待ってなかった人も、
お待たせしました。


一応手直しも終わったので、
ユレロ・ボレロを公開しようかと思います。

俺が電話を掛けなおしていない子からも、
インドネシアの紀行文見たいと言ってもらったので、
次はインドネシアの紀行文でも書こうかしらと思ってます。

小説みたいなスタイルじゃなくて、
エッセイみたいに書くことになるだろうけどね。

楽しみに待っててくれる人がいたら嬉しいですわ。



それじゃあ「ユレロ・ボレロ」、
お口に合うかはわかりませんが、
楽しんでいただけたら幸いです。


是非是非、感想・批評・指摘なんでも寄せてくださいな。
あ、ちなみに結構長いので、
読んでくれるという人はがんばってください。
喫茶の倍ぐらい?かな?
かけた時間はそれぐらいだけど。


それでは。










ユレロ・ボレロ



「君はどーすんの?」
「そう言うお前はどーすんのさ」
「あたしはあれだね、えー、んーとね」
「ん」
「いやぁー・・・特にないね」
「やっぱしか」
「やっぱしです」
五月晴れのゆるやかな日差しが気持ちいい午後。
オンボロな校舎の一番上の階の、一番端っこ。もうひとつおまけに、一番後ろの一番窓側で、あたしと健太はいつもどおり、螺旋みたいにダラダラと決まりのない会話をただ繰り返していた。
金曜日の昼休みなんかには、あたしと健太は毎週いつも同じ問答をしている。目下埋められているであろう、週末の予定を話し合うんだけれど、こんな話題をどちらともなく切り出すときには、決まってお互いどちらにも確約とした予定なんかない。
これが平坦な日常。
何の変哲もなく、またこの高校を去るまでに変わらない日常。
でもあたしはそれがつまらないとか、面白すぎるーそんなことがあるはずもないけどーなんて愚痴を言うつもりはさらさらない。
あたしにはもちろん友達もそれなりにいるし、まぁ人並みに愛している家族もいれば、将来の夢だって、断然ないわけじゃない。
ひとつだけ物足りないとすれば、あたしの周りにこれっぽっちも惚れた腫れたの類のうわさがないことだ。
男の子に人気がない、っていう事もない、と思う、・・・ああでも女のミリョクとやらがワタクシに無いことははっきりとわかっております。男子って、なんなんだ。胸がたっぷりありゃいいってもんじゃないでしょうに。
その分上原さんはすごい、ほんとに。女のあたしでも惚れ惚れするような長くて黒い髪に、すらっとした体形で、目だってこれでもかってぐらいぱっちりでいらっしゃる。さすが我が3組のアイドルとでも申しましょうか。それで黒い噂を全く聞かないんだから。僻んでるわけじゃないけど、男子がみんなあっちに惹きつけられるのも当然だ。勝ち目なんて全然ない。
しかし、何よりあたしが問題だと思うのはやっぱり健太だ。
まぁ高校に入ってからってもの、一年の頃からあたしの後ろをヒヨコみたいにちょろちょろしちゃって。そのインプリンティングのきっかけはなんだって一体。二年で何故にクラスを分けてくれなかったんだ、カミサマ。いやむしろ校長。ん、クラス分けは校長の仕事じゃないか。
そんなこと言いながらあたしも、健太のことが嫌いなわけじゃないし、まぁ何だかんだ苦にもせずいつも一緒にいるわけだからよくない。そりゃああたしが担任でも、こいつら付き合ってると思うしかないだろう。
というわけでこのクラスの共通認識と、あたしの貧相なミリョクも相まって、春風なんかあたしのもとには吹かないと。そういう結論にはや17歳で至ってしまったわけで。
でもあたしはそうやって今まで生きてきたわけだし、これからもきっとそうなんだろうと思う。
自分が限られたギフトを持っている人間だなんてさらさらそんな気はないけど、こうも明々白々に自分が超一般人だとわからされると、ちょっとだけおセンチでもある。
「また諸行無常の会合?」
「五月蝿い」
いつもふらふらしてるような軟派野郎のお出ましだ。
うちは茶髪が禁止だってのに、この似非外国人はいつになったら帰化するつもりなのか。
なんて憎まれ口を叩こうと思っても、何を言ったってこいつにはなんらダメージがないんだから言わないことにしている。これもいつもの事だ。
「ユウはなんかあるわけ?」
健太がきっと何の気もなしに聞いたのであろうその台詞を止められなかったのを、あたしはすぐに悔いた。
「俺はゆみちゃんとデートだ、デート」
「・・・聞いた俺が馬鹿だったよ」
聞かなくてもお前は馬鹿だよ健太。
窓の外を眺めながら、あたしは心の中でそう毒づいた。



軽い挨拶を交わした後、私たち三人はそれぞれ家路に着いた。
ユウは奥さんのオウチにお泊りだとか言うから放置してきた。前から健太ほどずっとつるんできたわけじゃなかったけど、あいつは今の奥さんにまぁ、ご執心。あたしたちは暗黙の了解でそれを嗜めるようなことはしないけど、何となく釈然としないところがあるのもまた事実だ。
健太の自転車の後ろに乗りながら、あたしはぼうっとそんな事を考えていた。
「ね、健太」
「あん?」
「こういうのって恋人同士がやることなんだよね、パンピー達の間じゃさ」
「なにそれ?遠まわしな告白?」
「あんた、その若さで死にたいの?」
「俺だってお前なんかとそんな風に思ってねーよ」
あたし達は少しだけ無言になった。あたしもどうしてこんなに捻くれて育ってしまったんだろう。
「ユウさ」
「え?聞こえね」
「ユウのこと」
「どうかした?」
「あれが俗に言うコーコーセーって奴なんだろうか」
「なにが!」
健太は上り坂に入ってちょっときつそうだった。うっすらとシャツに汗がにじんでいて、こいつも男なんだなぁとか当たり前のことを馬鹿みたいに思ったりした。
普通の女子ならきっと、こういうふとした仕草にときめいたり、男らしさみたいなものに惹かれたりとかするんだろう。
でもあたしは何も思わない。きっとマンガとかドラマとかなら、これが恋の始まりだって気付かないっていうパターンなんだろうけど、あたしは決定的に違う何かを感じていた。
健太だからとかじゃなくて、もっと違う、もっと大きな違和感を。
「もういいや」
「なんだよお前、ユウのこと気になんの?」
「ふざけろ」
そう言って健太の頭を軽く殴ると、健太はいて、なんて悪戯っぽく笑って、少しだけスピードをあげた。こうしていることがあたしの日常で、きっと将来幸せだったと言える思い出になるのだろうかと思うと、やっぱり何か少し違う気がした。


部屋着に着替えて、テレビを見て、夕御飯を食べて、お風呂に入って、メールをチェックして、それで大概、あたしの一日は終わる。
今日も途中までは全く一緒だった。しかし、ほんの些細な愚図で、あたしの平々凡々な人間性はいとも簡単に崩れ落ちることになる。
お風呂から出て、久々に出た「宿題」とか言う忌々しい責務と格闘していると、どうにもこうにも、にっちもさっちも進まない。ダメなときは何をやってもダメだ、なんて言うのがあたしのある程度モットーではあったんだけど、如何せんこいつと先生はそんな悠長な言い訳を認めてくれるはずもない。
そこで仕方なくあたしは、大学生の兄を頼る羽目になった。
兄は普通の人間だ。これといって特徴がない。そこそこいい奴で、そこそこ格好良くて、そこそこ勉強も出来るから、そこそこの大学に去年そこそこの成績で入った。特徴がないのが特徴なんていう悲しいやつだけれど、あんまり悪く言うことも出来ない。
あたしにもその血はしっかりと受け継がれて流れているのだし、何より今からあたしはその「悲しいやつ」に教えを乞いにいくのだから。
「兄ちゃん」
部屋の外から呼びかけてみる。が、返事はない。
もう寝ているのかもしれない。それなら話は簡単だった。叩き起こせば良いのだから。
そっとドアを開ける。ノックもしないで入るのはどうかとも思ったけれど、声をかけて気付かないのなら、どの道ノックしたって意味がない。
中に踏み込んでみると、そこは正に地獄絵図としか言えない場所だった。まさか自分の家のドアが魔界に繋がっているとは、さすがのあたしにも思いもよらなかった。
脱ぎ散らかされた靴下やTシャツ、飲みかけのペットボトル、天にも届かんといわんばかりの雑誌の山。
「何をどこまで放置すればこんな世界が生まれるんだよ・・・」
思わず独り言が出る。
しかし、どうやらお兄様は外出中なのか、何なのか。とりあえずお部屋にはいらっしゃらないようなので、これは千載一遇のチャンス。
「お部屋でも拝見させていただこうか」
文字通り足の踏み場もないような異界の地を、あたしは何のとまどいもなく突き進んでいく。当然のことだ。此処にある何もかも、あたしにとって大切なものなどあろうはずがない、遠慮なんかする気は毛頭ない。
しかしその時、予期せぬ闖入者を排除しようとする、その部屋の意思が私に牙を向いたのだ。
あたしは何も考えず、思いっきりベッドに反動をつけて座った。今思えばあれが私の最大限のミスだった。
もう十年近くも一人の男の体重を支え続けてきたベッドのスプリングが、よくよく考えればいつまでも五体満足でいるはずがないのだ。
そして禍々しい音と振動とともに、ベッドのスプリングは凹み、その脇にあったダンボールがあたし目掛けて降りかかってきた。
「痛!」
ほんとに目から火花が出るほど痛くて、突発的にあたしはそんな声を出した。まさか最大積載量を超えたヤツがいたとは、流石のあたしも不覚だった。
恐る恐る目を開けてみると、さっきよりほんの少し部屋が散らかっているようにしか見えなかった。最初から汚れていたのだから、当然といえば当然なんだけど。
ひとつため息をして起き上がろうとする。頭の天辺らへんがじんわりと痛くなってきた。誰が悪いわけでもない。むしろ、悪いやつはあたししかいない。法廷でも、勝算はまるでない。しかし、こう、誰にも八つ当たり出来ないムカムカは、どうしてか普通の痛みよりも断然痛い気がする。
その時あたしは見つけてしまったのだ。兄の、その、なんというか、そりゃあ兄ちゃんだって男なんだから、まぁ当然といえば当然なんだろうけれど。
とどのつまり、あたしがもたらした厄災は兄の秘蔵っ子―であるのであろうーいかがわしい本やビデオ達だったわけだ。
前述したとおり、あたしには恋人もいなければ思い人もいない。とすれば、勿論そういったケイケンがあるはずもなく。そして私も年頃の女の子なわけで。
忍び忍びその中の一冊を手にとってみる。表紙の女の人がなんだか凄いことになっている。なんだか見覚えがあるような気がして引っかかるけど、どうも思い出せない。
「結構ふつうっぽい人なんだな・・・」
あたしはまた一人でぶつぶつ言って、表紙をよく見る。
なんだかユウがこそこそ健太に教えてるーんだろうと私は思うーような単語が目白押しだった。まぁよくもこんなに卑猥な字面がすらすらと並べられるものだ。だから健太が『濡れる』なんて漢字、書けたわけだ。
ページをぱらぱらと捲ってみる。そのどれもがあたしには未知の領域で、少しだけ息が上がった。
動悸が激しくなる。女の人の綺麗な体、それに被さるようにいる男の人、男性のそれを口に迎える女性。
しかし、これを性的興奮と呼べるかは微妙なところだった。なんだか、お化け屋敷とは少し違うけれど、何も判らないところに一人で歩いているような高揚感。真っ暗の知らない道を一人歩くそれとよく似ているような気がする。
不安と好奇心の、どちらも引かない鬩ぎ合い。
その中であたしが一番目を奪われたのは、表紙の彼女のグラビアのページだった。
彼女の美しい肢体、悩ましげな瞳、艶やかな髪、ちょうど良い乳房、それらにあたしは一番興奮していたのだ。
女性としての憧れではないのだと直感した。ただ頬が上気して、頭の中が真っ白になっていく。
男性のそれではなく、女性のそれに、あたしは興奮していた。
しばらくあたしは放心していて、兄の怒号とげんこつでようやく現実に戻ってきたのだった。


「お?」
朝からご機嫌な大馬鹿野郎が陽気な声を上げる。あたしは昨晩の兄との大合戦でご機嫌斜めだったのに。
「お前、なんだ、どうしたんだよそのでっかいタンコブさんは」
「どうもしてない」
「どうもせずにそんなもんが出来るなんて、お前一回病院行ったほうがいいぞ」
「うるさいな」
「こりゃ痛そうだなー」
「だったら触んなっての」
無遠慮にあたしの頭の突起に触れる健太の腕を払いながらあたしはそう言った。健太は気分を害した様子もなく、そこらへんの男子と朝の挨拶を交わしている。
その間にユウが来て、健太と同じようなことを鸚鵡返しに言ってきた。だからあたしも意固地になって鸚鵡返しで答えてやった。これから今日一日、同じ様な問答が何回行われることになるのかと思うと、あたしは少しだけ憂鬱になる。
そう思った傍から、今度は高い声が聞こえる。面倒。健太やユウはいい。こいつらは中途半端に同情したりとか、外人みたいな大袈裟なリアクションをとらないから。女子はなかなか厄介でしょうがない。
「頭・・・どうしたの?」
「べっつにー」
「別にって、なんだかすごく腫れてるみたいだけど・・・」
「頭でかいってよく言われるの」
ふふ、と笑う女の子。あたしはさっきからずっと机にうつ伏せになっているから誰かはわからない。しかし、こんなに優雅な笑い方をする知己があたしに果たしていただろうか。
何の気なしに顔を上げると、そこには上原さんの微笑があった。
その時にあたしはまるで稲妻に打たれたような衝撃を感じた。脳天に突き抜けるショックの後に、なんだかこそぐったいような、気恥ずかしいような甘酸っぱい感覚が体全体を包んでいるような。自然と顔が赤くなるのを感じる。
ああ、もしかして。
その疑念が形にならなくとも、あたしにはわかっていた。
昨夜の女性が上原さんに重なり、揺れる。制服の上から上原さんの裸体を夢想する。美しいくびれ、豊かな乳房、すべすべの肌。そのどれもが愛おしくて、あたしの脳味噌はまるで機能しなくなる。
上原さんが去り際に何かぽつりと言った。きっと、お大事にね、とかそういった類の言葉なんだと思う。でもそのときのあたしにはそれはもう聞こえていなくて、小さく揺れる彼女の口元の、化粧っ気のない妖艶さだけがはっきりと記憶された。
「おい美羽、今日、ユウがカラオケおごってくれるってさ」
どきどきが止まらなくて、あたしは顔だけで健太を見返した。
「あいつ、ゆみちゃんにデートでもすっぽかされたのかな」
何も答えないままに、健太はちょっと嬉しそうにして続けている。
このあたしが、いの一番に大好きなカラオケに飛びつかないなんて、健太はきっと怪訝な顔をしたんだろう。
そんなぐらい、あたしは夢うつつだったのだ。
「おい、美羽」
上原さんの後姿が網膜で再生される。なんて美しいものなんだろう。
「おいったら」
健太が少し大きな声を出したので、あたしは面倒になって投げやりになった。もっとあたしは上原さんの余韻に浸っていたかったのに。
今日はいい、とだけあたしはぶっきらぼうに言って健太に背を向けた。
健太はきっと唖然として、憮然としたことだろう。でもこんな言葉遊び、今のあたしには何の興味もなかった。


学校が引けるとあたしは珍しく真っ直ぐに家に帰った。いつも健太の自転車の後ろに便乗しているものだから、歩くと意外に距離がある。
でもそのかわり、普段は素早く通り抜けて行く情報を、あたしは吟味して味わうことが出来た。季節の移り変わりなんて体感温度でしか測れないと思っていたけれど、そうではないようだった。梢の質感や、景色が発する様々な声。多くのあたしの周りの環境があたしを季節の中に取り込んでいくみたい。
あたしが死ぬまでに、後何度繰り返されていくのだろう。
そんな気が遠くなる様なことを思いながら、あたしは家路をゆっくりと歩いていった。
ただいま、と言って玄関を開けると、それにママがきょとんとして、あたしに熱でもあるんじゃないかしらと笑って言った。
文字通り、何かに熱を上げているには間違いないんだけど。
ママは久しぶりにあたしが真っ直ぐに帰ってきて嬉しいんだろう。その気持ちもわからなくもない。でも、あたしはそれになんだか酷くいらいらした。あたしが、もしかしたら人生―あたしの、平凡なはずの―危機を迎えているかもしれないというのに、能天気なママが無性に目障りだった。もちろんそれはただの八つ当たりで、反抗期みたいな癇癪だとは思ったけれど、どうしても素直になれなくてあたしは何も答えずに部屋に飛び込んだ。
ママのおろおろした顔を想像しないように、電気を着けずに、カーテンの半分だけを開けた。夕日になりきれていない、不恰好な太陽があたしの部屋を照らし始めた。
あたしの部屋は殺風景もいいところだ。
いちおう女の子ではあるから見るに耐えるほどには綺麗にはしているけれど、いちおう女の子のくせに部屋に華やかさがまったくと言っていいほどない。
いちおう女の子のくせにアイドルに熱中したこともない。でもいちおう女の子だから少女マンガを読んで泣いたりはする。
女の子。
いつでもあたしはその言葉に振り回されてきたような気がする。
女の子のくせに、男子とばっかりつるんでる。
女の子のくせに、大してお洒落に興味はない。
女の子だから、料理ぐらい少しは出来る。
女の子だから、マメっちゃあマメだ。
あたしは女の子で、女の子だから、そういう風に考えるとやるせなくなってくる。
なんだかあたしが女の子なんじゃなくて、女の子のあたしがいるみたいに思えてくる。
「・・・だからって、女の子が好きって、どーよ」
あたしはベッドに倒れこんで、誰に言うわけでもなく一人で嘆いた。
久しぶりに部屋から眺める夕焼け空に、あの人の顔が浮かんでは消えたりしていた。

次の日の朝、健太はうちまで迎えに来なかった。
たまに寝坊だったりお互い日直だったりで入れ違いになることはあるので、あたしはさほど気にもしなかったけど、何だかまた学校までの道程を徒歩で行くのかと思うと憂鬱になってくる。サイトシーイングは昨日もうやったのに。
愚痴愚痴言っていても仕方がないので歩き出す。あたしの家は坂の手大通り沿いにない。それでも学校は坂の手にあるわけだから、それなりの距離があることになる。その大通りに出るためには小道を二つ抜けなければいけないんだけれど、これがまた細くて困る。よくて三人組で並んで歩けるぐらいのものである。
思い返してみれば、健太はよくも器用にここを自転車で通るものだ。あいつがスピードを落とす時なんて滅多にないから、およそ減速してはいないんだろう。
健太は赤信号もカーブも関係ないもんだから、とりあえずいつも走っている。なんでも二人乗りは止まると動き出すのに面倒なんだそうだ。だったらあたし降りようか、なんて殊勝なことを、あたしが言うはずもなく、いつも上の空で聞き流していたけれど、実はこれがあいつの才能なのかもしれない。でも、もし一人の人間に才能がひとつしかないのだとしたら、あたしはあいつをどう慰めてやればいいのだろう。
そう思いながらぼんやり歩いていくと、大通りに出ていたた。急に交通量が増えて、人波が大きくなる。
見慣れた制服の間に混じって、名も知らぬ友人たちの諸所諸々を聞いていると、何だか昨日カラオケに行かなかったことが無性にもったいなく感じられた。健太とユウは二人でいったんだろうか。多分そんなことはないだろうけど、もしかしたら男同士でしか歌えない歌もあるのかもしれない。そうだとしたら、あたしはいなくてよかった。果たしてそんな歌があるかといわれたなら、思い浮かばないけれど。
「美羽」
呼ばれてあたしは振り向いた。そこには、いつもどおりパンクな頭をしたユウがいた。
赤に染まる前の紅葉みたいに深みがかかった金髪を、得体の知れない整髪料でガチガチにする。それがこいつの毎日の日課でありトレードマークでも在る。女のあたしから見れば、毎朝毎朝よくもまぁここまでする気になるものだと思う。けれども、そんなこいつから見たら、あたしの下手糞な化粧なんか歯を磨く程度の手間にしか見えないんだろう。
「おはよ」
「おっはー」
「おっはーってお前。いつの人間だよ」
ユウは大げさに笑った。その度に仰々しい耳のピアスが揺れる。
あたしはユウの馬鹿笑いには慣れているので、特にこれといった反応もせず、ユウと足並みをそろえて歩き出す。
ユウは背が高い。
あたしも女子の中では背が高いほうだけど、ユウの顔を見るときには首ごと持ち上げなければいけないぐらいだ。
「そういえば美羽、なんで昨日来なかったの」
信号待ちの間にユウはあたしにそう尋ねた。あたしは何と答えてよいかわからなくて、最初聞こえないふりをした。
まさか、上原さんのことが頭から離れなくて、なんて素直に言えるわけがない。あたしだってそこまで子供じゃない。
するとユウは怪訝そうな顔をして、しかしさほど気にも留めていない様子で髪の先をいじり始めた。
あたしもその場は乗り越えたような気がして、そのまま下らない話をした。昨日見たテレビについてだとか、宿題の不可逆性に対する教師の越権行為についてだとか。
「あ、そういえばさ」
あたしはそのままの雰囲気で、何気なく続けた。
「あんたがカラオケ奢ろうだなんて珍しいよね」
ユウは適当にそうかぁ、とかなんとか言って、はぐらかした。
「そうだよ。いっつも『ゆみちゃんがどうだ』『ゆみちゃんのために』って言ってばっかりじゃん。ジュースだって、まともに奢ったことないくせにさ」
ユウはテカテカしてる髪の先っぽをいじりながら、中途半端に笑って、あたしの囃しを無視した。なんだかいつもと違うな、と思って、あたしはピーンと来た。あたし、もしかしたらニュータイプなのかもしれない、ってぐらい。
「わかった。あんた、さてはゆみちゃんにフラれたな?それで自棄になったんでしょ」
あたしは嫌らしくうしゃしゃ、と笑った。ユウははにかんだまま何にも言わない。
「そりゃー当たり前だよ、あんた。あんたみたいにフラフラしてる奴が、自己犠牲とか、変わらぬ愛とか言ったって信じてもらえないでしょうよ」
ユウは俯いたままなんにも言わないままだ。さては、図星だな。
あたしは報われぬ恋−あたしの場合、どうかはわからないけれど−に身を寄せる同士が出来たのだと思って、ヘンに心強く感じて嬉しくなった。まぁ、ろくでもない恋愛経験だろうけど、どっちにしろ、あたしよりも経験が多い仲間が出来るのは頼りになるものだ。
「ま、今までよくもったほうなんじゃないの、あんたにしては」
「ていうか」
ユウはそのままの顔で、わざわざあたしに向き直った。ユウはあたしを見下したようでもあって、同情するような表情でもあった。
「僕ちゃんがいつ、ゆみちゃんと別れたなんて言ったんだよ」

「ちゃん、とか言うなよ気持ち悪い。じゃあなんでさ」
「気まぐれに決まってるだろ。あーあ、美羽ちゃん、残念だったな。二回目は残念ながら当分先だね」
「だから、ちゃんとか言うな」
そうやってあたしたちはじゃれたまま、とろとろ学校まで辿り着いた。いつもと変わらない下駄箱なのに、今日はどうしてか、隣の隣のその下の施錠が気になる。上原さん、もう来てるのかな。あたしは、その下駄箱を調べようかどうか、とても迷った。何にも気兼ねすることはない。通りすがりに、自然にちらっと目を向けさえすればいい。
でも、それが難しい。
少なくとも、いっつもユウや健太とばかりつるんでいるあたしにとって、上原さんの下駄箱を調べる必要性なんて、ホームレスが世界情勢を気に掛けるぐらい、ない。それでも、気になるものは気になるのだ。クラスメイトなんだし、何にも知らない相手同士な訳じゃない。調べたって別に、おかしくなんて、ない、と、思う、んだけど、どうだろう。
「君何やってんの?」
その声にあたしはとてつもなく驚いてしまって、この地球の重力をコンマ3秒ぐらい振り切った。つまり、飛び上がるほどに驚いてしまったのだった。
「別に」
あたしは、マンガとか小説なんかよりもっと上手に平静を装っては見たんだけれども、やっぱり、知己はそれを見逃すはずもなく、安っぽい上履きのゴムの音を響かせながら、あたしに近寄ってくる。そうして、動揺のあまり焦点が定まらないあたしの前で立ち止まると、きょろきょろと周りを見渡す。
「どうしたのさ?」
「なんでもないってば」
ユウが気付かないようだったので、あたしはようやく腹の据わりも落ち着いて歩きだすことが出来た。
「あ」
ユウが何かを見つけて声を上げた。そこで、あたしはまたしても宇宙飛行士になるところだった。
「何よ?」
「上原さん、まだ来てないみたい」
「あ、そ」
「これで上原さんを眺める時間が十分少なくなってしまった」
「上原さんはあんたなんて見たくないだろうから、僥倖だ。ていうか、あんたゆみちゃんは」
「ゆみちゃんは僕の愛する人だ。上原さんは誰もが愛する人だ」
「もういい」
ユウのおちゃらけた能天気と付き合いながら、階段を登る。登りきって、ユウは僕の愛する人に朝の挨拶をしてくるだとか何とか言って、隣のクラスに行ってしまった。ゆみちゃんがさっきのを聞いていたら、一体どんな顔をするだろう。
そっか、まだ、来てないのか。
あたしは落胆したわけでもなく、安堵したわけでもなく、そう思った。あたしより遅いなんて珍しいこともあるもんだ、なんてヘンに他人行儀な考えさえ浮かんだ。教室のドアに手を掛ける。あたしがつく頃には、教室はいつも通り込み合っていて、いつもなら上原さんもお友達と談笑していらして―――。
しかし、ドアを滑らせると目の前には、上原杏奈さんがいた。
何が何だかわからないまま立ちすくむあたしの後ろで、隣の教室にいるはずのユウが、すました顔でビンゴ、と呟いた。


あたしはそれから、ずっと虫の据わりが悪かった。
ユウに出し抜かれたこともあったし、それより何よりも、あたし自身が上原さんを見たときに、自分の直感をもってして、このヒトに何か違和感の在る感情を持っているのだと思い知らされてしまったことのほうが大きかった。
どんなに自身の中に、一般倫理として今までに培った概念と云うものを奮い立たせていたところで、その自分自身が、異端である自己を認めるということになるのならば。こんなに惨めなことはないとあたしは思った。
ずばり言ってしまえば、自分自身で「自分は負けました」と、白旗を揚げざるを得ないような状況。自分で認めている分、性質が悪い。
だから、健太が遅れて教室にやってきたときにでも、健太の顔がうっすら赤くて、鼻声で辛そうだったのにも気付いたくせに、あたしは労わるような優しさを何も見せなかった。あくまでも意識的に、見せなかった。
もちろん健太は、あたしのそういった優しさを見返りにして、わざわざ謝ってくるようなヤツではないのだから、健太に何といった反応もない。
あたしはただ、自分勝手に自分で自分を傷つけてるだけだ。余裕がなくて、嫌になる。そんなあたしが嫌い。あたしなんか死んでしまえばいい。
哀しい哉、それでも時間と云うものは勝手に流れていくものらしくて、昼休みの時間帯になっていた。あたしは多少冷静にはなったものの、ガキんちょみたいに気恥ずかしくて、ユウや健太とは顔を合わせづらかった。
そのせいもあって、購買部までパンでも買いに行こうと思って、友達と一緒に階段を下っていく。
女の友達は特に面白くもない。健太みたいに真っ直ぐな馬鹿なわけでもないくせに、それを隠そうとするから余計惨めに見えたり。ユウみたいにクレバーな立ち振る舞いも出来ないくせして、達観したような言い草だったり。
それでもあたしは笑顔を貼り付けてそれに同調するしかない。
もしマイナスな概念だとしたって、あたしの中に存在していないことは間違いのないのだから。出来ないことには、黙って従っているしかない。世の中の摂理なんてそんなものだと思う。
購買部の前まで来ると、予想通りそこには黒山の人だかりがすでに出来上がっていた。
いつもは学内一のスピードスターに手早く確保してもらうものだから、あたしはこんなことですら自分自身で出来やしない。そのスピードスターも風邪気味で故障中。
あたしはなんだか急にやる気がなくなって、ついでに食欲まで失せてしまった。あたしは影絵人形みたいな友達に平謝りをして、そのまま所在無く校内をうろつくことにした。こういう時の昼休みって、憂鬱で仕方がない。八つ当たり以外の何者でもないことはわかっているけど、幸せそうにしている奴らが憎くてしょうがなくなる。
あたしはもう誰にも見られたくなくて、誰も見たくないと思って、思い切って屋上まで駆け抜けた。普段使わない体中の筋肉が悲鳴を上げるのが解る。肩と胸とでだらしない呼吸をつなげながら、ようやく天日の射す屋上まで辿り着く。急に上がった気温にあたしの体は反応して、汗がじわりと押し出てくる。風が首筋を掠めていって、汗をどこかへ攫っていく。人が汗をかくのはこの一瞬のためなのかもしれない。何の根拠もなく、あたしはそう思った。
壁沿いまで行くと、上空から眼下に小さな敷地のプールが見える。三階建ての小さな校舎だから、そこの風景はありありと望むことが出来る。そこであたしは悲しくも実感する。
上原さんの水着姿を探し続ける自分が、もう普通の女子として戻ることなんかできやしないってことを。


次の日も、その次の日も学校にいる間、あたしは気もそぞろだった。
健太もユウも最初はそんなあたしをからかったけど、あたしが普段と違うからか。何だか気の抜けたような感じであたしには近づかなかった。これも、あいつらなりの優しさだと捉えていいのか。
そんな悪友たちの思いやりに、ほんの少しばかり感謝の意を称えながらも、あたしの気持ちのほとんどは、やっぱり上原さんに向かっていた。
授業にもまったく身が入らない。気になるものといえば、上原さんの後姿の挙動だけだ。恋をすると授業なんて聞いてられない、なんてマンガのヒロインたちは言うが、間違っちゃいない。あたしもご多分に漏れずそれだ。
こうなったら仕方がない。グダグダ考えていたって何もわかりゃしない。あたしは体育会系だ。たぶん。
あたしは、あたしとしてはかなり大きな決意を胸に秘めて、ノートに数式をしゃかりきに写した。まるで、どっかのロボットみたいに。

「君たちに重大なお知らせがあります」
あたしは昼休みに無理やり健太たちを屋上に引っ張って、そういった。今のあたしの仁王立ちなら、弁慶にだって引けをとらない。
「はい」
ユウが座り込んだまま手を挙げた。
「ユウくん」
あたしは仁王立ちのままユウを指した。
「僕にとって昼休みとは、ゆみちゃんとのスキンシップのための貴重な時間なんですが」
「ゆみちゃんの了解はとってあります」
名前しか知らないくせにどうやってだよ、とぶつくさユウは言ったが、あたしはとりあえず無視することにした。
「さて、重大なお知らせとは他でもありません」
あたしはゆっくりと、体育座りの悪友たちの前を2、3回行き来しながら言った。
ユウと健太の視線がそのあたしの動きに合わせて動く。このあたりの反応が可愛いやつらだと思う。
「わたくし、朝倉美羽は今、恋をしております」
立ち止まって言う。突飛な告白―しかもこの、あたしの―に健太はあんぐりと口をあけている。ユウはどうでもいいような顔をしながら時計を気にしている。
「それと僕らの連行とどういった関係があるんですか」
ユウがつまらなさそうに言う。
「君、発言は挙手をして」
あたしは見下ろしながらユウをたしなめる。
「は、はい」
「君に発言権はない」
健太が入ると話がややこしくなりそうだったので、あたしはぴしゃりと言い放った。健太はぶーぶー言っている。
「はーい」
「『はい』は一回できっぱりと。はい、ユウくん」
「それは誰なんですか」
「聞きたいか」
「いや、別にそれほど」
「そこまで頼むなら言わんでもない」
ユウが諦めたような顔になる。あたしも、いざここまで言ってしまった手前引くわけにはいかない。
それでもやっぱり、少しだけあたしは怖くなって二人の顔を交互に見た。
そうしたら少しだけ安心した。たぶん、こいつらだったら話してもいい。
笑われたなら笑われたで、そうすればあたしも考え直すかもしれない。単なる気の迷いだったと、思いなおせるかもしれない。
すっと息を吸い込んで、あたしは決意する。
「・・・上原さん」
健太は目を丸くして、はぁ?と言った。ユウは何も言わずにため息だけをついた。
「本気で言ってんのか、お前」
健太が立ち上がって言った。にじみよられると、ちょっとだけ臆病になってしまうあたしがいる。
「ん、うん」
「なんだよそれは」
健太は半笑いでそう言った。予想はしていたけれど、こうも予想通りの反応をされると、話したことを後悔してしまいそうだった。
「しょうがないでしょ、そうなんだもん」
あたしだって理屈はつかないけれど。
「上原さんは女じゃん」ユウが時計を見ながら言った。「そして君も女じゃん」
「そうだけど」
「だけど、じゃないよ全く。そんな下らないことで呼び出すなよ」
あたしは、素直に腹が立った。
「下らないって、何だよ」
「下らないだろ、そんな与太」
「あたしは本気なんだよ」
「本気ならなおさらだ」
口論の途中で、ユウは立ち上がってズボンの埃をはたき落とした。そして、すごく冷たい目をしてあたしの目をじっと見つめた。
あたしにだって意地がある。ここまで言われてそのまま引き下がるわけにはいかない。
「だったら美羽は、レズだってこと?」
ユウは汚いものでも見るような目をして言った。本気で、ゆみちゃんとの時間を奪われたことに怒っているのかもしれなかった。
目の前が真っ暗になった。
その言葉はあまりにも直球過ぎて、でもそれはあたしを最も的確に表した言葉なんだ。
あたしはレズビアンという「変態」、女性性としての「異常」。
自分でも勿論気付いてはいた。それを指摘される覚悟も、それを笑い飛ばしてやる度胸もそれなりにしていたつもりなのに。ユウに言われたことによってその言葉は、何倍も何倍も重くあたしにのしかかる。
ユウはそのまま何も言わずに屋上から去っていった。健太はやるせないようにあたしを盗み見て、少ししてからユウの後に続いて屋上を後にした。
あたしは涙がこぼれないように、唇をかみ締めて立ちすくむほかなかった。


その日は勿論のこと、それから一週間ぐらいあたしはずっと塞いだままだった。
ユウは見るからにあたしのことを無視し始めたし、健太は何も変わらないように見えて、あたしを見ると優しいような−哀れむような−顔をして小さく笑うだけで近くには来なくなった。
考えてみれば、この二人がいなかったら、あたしはこんなにも孤独だ。
友達もいるにはいるけど、健太やユウほどわかってくれるやつはいない。笑ってすごせるやつもいない。
女が好きなあたしは、あいつらにとって友達じゃなくなってしまったんだろうか。
そうしたらやっぱりあたしは、あいつらのそばにはいられないんだろうか。
天気がこんなにもいいのが、まるであたしを嘲笑ってるようにさえ見えてしまうのが、ダメなところなのかもしれないけど。
そろそろその事件のことも忘れかけていた、
その時、健太の声を久しぶりに聞いた。
「今日、ちょっと付き合わね?」
そのときの健太の顔は何かを期したような、迷いと決意が入り混じった複雑な顔だった。それが少し怖くて、あたしは頷くのを躊躇ったが、それも長い孤独の果ての一筋の光明に簡単に負けてしまった。

健太の自転車の背中に揺られていると、とても懐かしい気持ちがした。
いつも当たり前のように乗っていたこの定位置が、こんなにも愛おしいものだとは思わなかった。
ああ、そうか。
恋人たちはこの時間を、この場所を共有しているのか。
少しだけ汗ばんだ、いつものシャツを後ろから眺める。
それでもいずれ、この場所はあたし以外の「女の子」の特等席になるんだろう。
そう思うと、なんだかまた泣き出しそうになったから、あたしはぎゅっと健太のシャツにすがりついた。健太は気付いているのだろうけど、何もいわないまま、ペダルをこぎ続けた。
そのうちに、少しずつ速度が落ちて風が緩やかになってきた。目的地に着いたのだろう。周りの景色を見ていなかったものだから、どこに連れて行かれたのかも解らない。
「早く降りろよ」
わずかに息を切らした健太が促す。あたしは何も抵抗せずにそのまま同意し、周りを見渡す。
そこは馴染みの神社の境内だった。
あたしたちのテリトリーの近くにはさほど大きな公園がないものだから、毎年夏祭りとかラジオ体操だとか、そういったイベントにいつも使われている場所だ。
そういえば、最近ここに来てなかったと思う。それもそのはずだった。一緒に行くやつがいないんだから。健太はめんどくさがっていかないし、ユウさんには素敵な奥様がいらっしゃるし。
「座んねーの?」
あたしが周りをきょろきょろと見回し、思い出に浸っている間に、健太はすでに缶ジュースを持って階段に腰掛けていた。なんともならない返事をして、あたしはおどおどと健太の隣に座った。
さて、改まってどういう話になるのだろう。
ここ何日かあたしは健太と殆ど一緒にいない。あたしは、言い方は悪いけれど、上原さんのことが頭から離れなくて、健太のことを考えてる余裕なんかなかった。健太と朝一緒に登校したりもしなかった。健太もユウも、こんなあたしから少しずつ距離をとろうとしていたんだとあたし自身も思っていたし、健太やユウの態度もそれを示しているものだと理解していた。それがあたしにとっては日常になっていったし、健太にとっても日常になっていったんだと思う。
でも、確かに毎日言葉を交わさなくなってから、健太やユウの顔を思い浮かべることは多くなっていた。その度にあたしは、恋愛感情を抱けない最も近い異性を見せ付けられて、上原さんへの思いを募らせるしかなかった。
それと同じ症状が、健太にも発生していたとしたら―――?
まさかとは思うけれど、何か・・・あったりするのか。
確かに、そう考えれば今までの健太の行動にも全部のつじつまも合う。そういえば、健太と初めて遊んだのもここの境内だったような気がしないでもない。
どうしよう。どうすればいいのだろう。
確かに健太のことが嫌いじゃあない。でも、やっぱり好きとか、そういう風に見たことはない。
なんだけど、健太の自転車の後ろは居心地がいい。譲りたくない。
「あのさぁ」
健太が私に缶ジュースを渡しながら言った。
「へっ」
あまりにもびっくりして、思わず声が裏返ってしまった。
「何びくついてんだよ。お前はいつもオレンジだろ。あ、コーラは渡さないぞ」
「そんなんじゃないよ」
夕暮れ時の境内にうっすら日が入っている。オレンジ色の神社はまるで、切り取られた写真みたいだと思えた。
健太は喉を鳴らしてコーラを駆け込ませている。
「この前の話なんだけど」
胸がほんとにどきりと鳴った。そうか、やっぱり。健太はあたしに告白するつもりなんだ。
「こ、この前って?」
「だからなんでとぼけるんだよ。あんなに真剣だったくせに」
そう言って健太はちょっと笑った。素直な健太の笑顔を久しぶりに見たような気がした。
「俺も考えてみたんだよ、俺なりにさ」
そうか、それで『俺じつはお前のこと好きだって気付いたんだ』なんて言うつもりか。
どうしよう、あたしはなんて答えればいいんだろう。どう言ったってあたしは健太を傷つけてしまう。
ああ、あたしは何て罪な女なんだ。
「俺、やっぱりさ」
「ごめん!」
もう言ってしまうしかない。
「は?」
「あたし、健太のこと、そりゃ大切に思ってるよ。ほんとに、なんて言うんだ、すごいかけがえのない人だと思ってる。でもさ、それは、あれだよ。友達としてっつーか、なんつーかさ」
「はぁ・・・」
「だから、その、今までどおりでいたほうがいいと思うし、あたし、別に気にしないからさ」
「へぇ」
「だから、あの、ごめんね」
「うん?まぁお前が何を言ってんのかイマイチわかんねーけどさ、とりあえず、俺がしたい話に、俺は関係ないんだけど」
「はぁ?」
「まぁとりあえずお前は座りなさい」
「あ、う、うん」
あたしは必死のあまり立ち上がってしまっていたらしい。
一口缶ジュースを飲もうと思ったら、もう飲み干してしまったことにも初めて気がついた。
「ていうか、じゃあ、何?」
あたしが訝りながらそう言うと、健太は視線をあたしから離して、足元の少し先に変えた。
「お前さ、屋上で言ってたじゃん」
「あ」
「上原さんが好きだってさ」
また違う慟哭があたしに襲い掛かってくる。
そうか、もしかしたらそんなあたしに絶交の最後通告が送られるのかもしれない。
よくよく考えれば、あたしにはそれだけの理由が十分にあるのだ。
「俺さ、やっぱりそれは普通じゃないと思うんだよ。だってお前は女の子だし、上原さんも女の子なんだし」
あたしは黙っていた。怖くて何も言えない。
「俺は女の子が好きだし、その、やっぱり、やらしいことも考えたりするよ。俺は男だし、それが普通だと思ってる」
健太はあたしを真っ直ぐに捉えなおして言う。
「でも、お前はどうなんだ?好きって言うのは、ただ単に上原さんに憧れてるだけなんじゃないのか?上原さんと、その、言いにくいけど、したいのか、キスとか、その先とか」
「憧れてるとかは、違う」
「違うってわかんのかよ?お前、上原さんの裸とか、興奮すんのか?」
「するんだから、仕方、ないでしょ」
あたしは泣きそうになって、搾り出すようにそれだけ言った。最近、泣きそうになることばっかりで嫌になる。
「あたしだってずっと考えた。健太の言ったことなんか、何回だって考えたよ」
怒鳴るつもりはないのに声が大きくなる。健太は驚きながらも、真剣な表情で真っ直ぐにあたしの目を見ている。
「男の子を好きになろうとも思ったよ。我慢して我慢して、好きになろうと思った。でも、でも、それでも」
「上原さんが好き、なのか?」
あたしは言葉で答える代わりに頷いた。その折にぽろりと一粒だけ、涙がこぼれた。
しばらくあたしたちは黙りこくった。あたしはもう、恐ろしかったり、恥ずかしかったり、色々な気持ちがあふれ出して整理できなくて、顔を上げられずにいた。健太が頬杖をついているのが横目で見えた。少しだけ風が出てきてスカートのひだを揺らしている。
「仕方ねーな、お前はもう」
どれぐらいの沈黙の後だったのだろう。健太が言った。明るい声だった。
「そこまで思いつめるほど本気なら、俺はもう何も言わないよ」
「え?」
「だって、好きなんだろ?」
「・・・好き」
「じゃあ、それでいいじゃん。もうさ。お前が女を好きだからって、別にどうってことはないんだよな」
「なんか適当」
「そりゃそうだ。俺にはやっぱりわかんねーし、変だと思うよ。でも、だからって俺たちがギクシャクする理由にはならねー、と、思うし」
「そう?その、―――変態、の友達なんてヤじゃないの?」
「そんなん、ユウのプレイに比べりゃ大したことじゃねーだろ」
言いながら健太はにやにやしてあたしを見た。
「それもそうかも」
あたしはそう言って声を上げて笑った。やっぱり、健太といればあたしは笑える。
でも同時に、あたしはユウの姿がないことに物足りなさを覚えてしまう。
あいつは髪型もキテレツだし、なんか軽いし、ふらふらしてるし、ってこう言葉にすると悪口ばっかりなんだけど。
それでもいつも何だかんだ冷静に三人のことを考えてたり、はしゃいでるときに後ろを守ってくれるような、頼りがいのあるヤツだった。
「ユウは」
「・・・うん」
「ユウは、あたしをわかってくれるかな」
「どうだろうな」
笑い終わって、健太は冷たく言った。そんな健太の嘘のつけないところが、厳しくて、辛くて、暖かくて。あたしは健太を疑うことなんて、これっぽっちも出来なくなる。
その頃にはあたりは少し薄暗くなっていて、一番星が綺麗に見えていた。
あたしも健太もまたちょっとだけ無言になって、それを眺めるようにした。
「あいつさ」
健太がおもむろに話し出した。
「女子の間をいつもゆらゆらしてるヤツだと思うじゃん」
「違うの?」
「違う、わけじゃねーよ。確かにフラフラしてる。でもあいつはいつだって本気なんだ」
「本気って?」
「あいつ、泣くんだぜ。大抵。カノジョと別れたときにさ」
あたしは驚いてしまってぐうの音も出なかった。まさかユウに限って、そんなことはないと思ってた。
なんらかのきっかけで泣くことぐらい−それも想像しがたいけど−はあるかもしれない。
でもそのきっかけが恋愛だなんて、思いもよらない。
「あ、お前。ユウに限ってそんなこと、とか思ってるだろ」
「そりゃあそうでしょうよ」
「ユウがまさか、みたいな」
「女のために泣くなんて思わないでしょ?ユウだよ?」あたしは無神経だった。「泣かせるならまだしもさ」
健太は少しだけ寂しそうな目をして、あたしのほうを向きなおして、それでも強い口調で言った。
「でも、お前も同じこと思われてムカついたんだろ?」
そう言われてあたしははっとした。
あたしは『女のくせに』女の子が好きなのはヘンだ、と言われて傷ついた。
ユウは『ユウのくせに』恋愛で本気になるなんてヘンだ、と思われて、たぶん傷ついていたんだろう。
まして、ユウはずっとそうあたしに思われていて、あたしは何も気にせず心無い言葉をユウに浴びせ続けていた。ユウのほうがよっぽど傷は深い。
あたしはそれなのに、ただ茶化されるのが怖いなんていう自分勝手な理屈で、ふざけた言い方しか出来なかった。
そんなあたしの恋愛に対する態度にユウが怒ったとしても、何もおかしくない。
「わかんないのも無理ないけどな」
健太は言った。
「俺にしか見せないんだよ、あいつはさ。今でも昔の彼女に『ああしてれば』『ああしてやってたら』なんて、思い出してヘコんだりしてんだ」
「あたし、知らなかった」
「そりゃそうだ。俺にしか見せないって言ったろ」
「あたし」
「ユウには、なんていうか、今までの生き方を馬鹿にされたようにしか写らなかっただろうな」
「そんなつもり」
「なくたってしちゃうこと、いくらでもあるだろ?」
まるでその言葉が全ての何かを見透かしているように聞こえて、どうしようもなかった。
何も答えることの出来ないあたしの頭を、健太が優しくぽんぽんと撫でる。
その暖かさが、あたしの罪を業を、ゆるやかに流していくようにさえ思えた。
「大丈夫、あいつは根に持つヤツじゃない。ちゃんと謝ったらいい」
「・・・うん」
「さ、もう暗いしそろそろ帰るべ、なぁ」
「・・・うん」
ゆっくりと階段を下りている間、あたしはぼんやりとユウと健太の秘密の会合を想像していた。
その中にあたしがいないのは、きっと「女の子」だからなんだろうと思うと少し妬ましかったけれど、もうあたしはあんまりそんな事を気にしないようになっていた。
女の子だけど、女の子が好きなんだ、あたしは。
それで納得したわけじゃないけど、そうやって生きていくしかないのなら強く生きよう。
支えてくれるやつが一人、たった一人だけれど、見つかった。
でもその一人はあたしにとって誰にも変えられない。代わりがない「一人」。あたしを「あたし」として認めてやるように、あたしは健太を「健太」として精一杯向き合っていこう。そう思った。
いつもの帰り道とは違う景色を、いつもと変わらないスピードで悠然と進む、少し頼りないけれど大きな背中。
あたしはその背中の持ち主の幸せをただ、祈ろうと思った。


夜も更けようかというころに、メールが来た。
まだ眠るつもりもなかったけど、こんな時間にメールを送ってくる非常識者は誰だろうかと思い、送信者を確認する。
そこにあるのは見慣れた友の名前。300を超えるメモリの中の、001のナンバーを持っているやつ。
【駅前のデニーズ。5分厳守】
本文なしで送ってくるやつの言いなりになるのもどうかと思ったが、こいつに限ってのこの状況は多分、それなりに一大事なのだ。
【チャリでも10分はかかるっつーの】
同じようにタイトルに返信しつつ、小走りに俺は玄関を出た。

目的地に辿り着くとそこには、若者のくせにドリンクバーを活用しない親友がいつものように座っていた。
「遅せーよ、ユウ」
「無理だって言ったじゃん」
そう言いつつテーブルに腰掛けると、見慣れたウェイトレスがいつものようにオーダーを取りに来た。
いつものようにホットを頼む。
「こんな時間に呼び出されるの何回目かな」
「どの女子と間違えてんだよ。俺は男。始めてだっつーの」
「じゃあ、そこまでの大事な話って何?」
健太は何らかの踏ん切りをつけるように、水を一気に飲み干した。こいつ自身も話しにくい何かなんだろう。
とはいえ、大方の予想はついていたけれども。
「美羽の、あれ」
「あれか」
「今日ちょっと話してきた」
「ふーん」
「・・・あいつ、本気だぞ」
「だから?」
「だからってお前」
「俺には関係ないよ。あんなのただの処女の憧れじゃんか。それかただの嫉妬」
「それがさ」
健太は窓のほうを向いて、伏目がちな様子で諦めたようにため息をついた。
「あいつ、そこらへんも越えて本気なんだって」
「そんなことあるわけない」
何だか無性に虫の居所が悪くなった。美羽のどうこうより、健太がそれをまともに捉えているのが何だか馬鹿らしくなった。いや、悔しくなったのかもしれない。
「女が女に惚れるなんて、そんなのどう考えたっておかしい」
「ああ、そりゃそうだ」
「男と女がくっつくから、世の中上手くいってるんだ」
「まぁ」
水を汲みに来たウェイトレスのせいで会話が途切れた。やる気がなさそうな素振りのくせして、こちらの状況には興味津々なのだ。そういう野次馬のせいで、また少しいらいらいが募った。
「でも、あいつは上原さんを抱きたいんだってさ」
「無理じゃん」
「無理だよ。けど、あいつはそれほど上原さんに夢中なんだ」
「そんなの、あっちにとったらいい迷惑なだけだ」
「そうかもな」
健太は注がれた水を少しだけ口に含んだ。自分も誘い合わせたように冷め始めた珈琲を少し口に含む。
「お前も似たような経験、あるじゃないか」
「・・・記憶にないね」
「似てるっていうのはおかしいか。あれから、何年経ったっけかな」
健太は思い出すように宙を見上げて、足を組んだ。
「二年と、三ヶ月」
忘れたことはない。いつだって、嫌だって思い出すのだ。
「そうか、もう」
「うん」
「そんなになるかな」
健太の言葉で、昔の淡い思い出が想起される。
まだ幼かった自分。独りよがりの愛情。押し付けるだけの、ままならないセックス。恋に恋していた頃の自分。
もしかしたら美羽の恋を嫌うのは、自分の幼い頃をまざまざと見せ付けられているからかもしれない。
「あのとき俺は応援してたよ、お前のことを」
「役には立たなかったけどね」
「同じように応援してやりたいんだよ」
「同じようにダメになるよ」
「揚げ足ばっかりとるな、お前は。応援なんて成就するようにするだけじゃないだろ」
「は?」
「だからさ、ダメだったときに思いっきり泣ける場所を作ってやりたいんだ、俺は」
いろんな過去が頭の中でフラッシュバックする。
今までいろんな恋愛をしてきた。それは凡て自分で実らせたり破られたりしてきたものだと思ってきた。
でも、確かにいつもそこには健太がいた。
一人じゃなかったから、色んなことに耐えてこられた。
「なぁ」
健太はゆっくりと、優しい目をして言った。
「お前にも出来るだろ、きっとさ」
そう言ったきり、しばらくどちらも無言になった。
国道を走る車のヘッドライトが、狂ったように往復していた。まるで、自分の気持ちみたいだと、むずがゆいながらも、そう思った。



翌日、あたしは健太に呼び出されて屋上に出向いた。
あたしとしては昨日の健太との邂逅で、健太に気を許しすぎていた部分もあったかもしれない。今思えば何の準備もしないまま、言われるがままなんて一生の不覚だった。
屋上のドアを開けると、健太が地べたに座っていて気さくに手を上げて挨拶した。
「いい天気だ。なーんも余分なこと、考えられないみたいなさ」
寝転がって大きく伸びをしながら健太が言った。
「君の頭の中みたい」
あたしはいつものように軽口を叩いた。それがあたしの中で、健太との関係がいつものようにパラレルであるとの暗黙の了解をお互いに打ち立てる。
「全く、口が減らねーなお前は」
そういいながらも嬉しそうな健太を見ると、それを実感できる。
「で、なんで最近呼び出しばっかりなわけ?男子の中で流行ってんの?」
「それはあいつに聞いたら?」
寝転がった健太の視線の先にあたしも視線を向けると、そこには。
示し合わせたようにユウが手すりによっかかっていた。ちょうど、入り口のあたしの位置からでは見えづらいところにいたので、大層あたしはびっくりした。
それにあたしは気まずかった。昨日、健太と二人っきりの時には確かにユウに対しての疑念と云うか、もやもやは晴れたし、贖罪じゃないけれど、自分の恥ずかしいところにだって気付いた。でも、それでもいざ顔を合わせるとなると気まずいものだ。
明らかに狼狽する卑怯なあたしに、ユウがぶっきらぼうに言う。
「おはようございます」
「お、はよう、ございます」
あたしは知恵遅れみたいにしどろもどろ挨拶を返した。
「単刀直入に云うよ」
「え、あ、うん」
「上原さんのこと」
雲が一瞬にして晴れたかのように鮮明に、ユウの姿が網膜に焼きつきだす。
「俺はやっぱりそんなこと、認められない」
あたしは何も言えなくなって、いや、何も言う権利がないことぐらい自分にもわかっていたから、黙っていた。
「だけど」
ユウはあたしに背を向けて、話し続けた。
「美羽自身のことを認めないわけじゃない」
あたしは思わぬ言葉に、ユウの背中を見送るしか出来ないでいる。
「だから一つだけ聞かせてよ」
ユウはこちらを向きなおして、ユウらしからぬ大真面目な顔で語り始める。
あたしの目を真っ直ぐに見据えながら。
「上原さんのこと、本気なんだな」
「好き」
「本気で?」
「本気で好き。それは誰にも譲れない」
「別に僕は欲しくないよ」
そう言ってユウはちょっと笑った。あたしもなんだかほっとした。ユウの笑顔を見たのはほんとに久しぶりだったから、思わず見とれてしまった。
そうこうしているうちに、あたしはユウに言わなきゃならないことがあったのを思い出した。
「あの、さ」
「ん?」
「ユウに謝らなきゃいけないことが」
「あぁ、そうだ」
ユウは一転してまじめな顔になった。
「君のせいで、僕はゆみちゃんとただ今冷戦中だ。どうしてくれる」
「あ、いや、それもごめんだけど」
「それ以外も何もあるか。僕はゆみちゃんとの愛にのみ生きてるんだぞ」
そしてそのまま大真面目な顔で、ユウは続けた。
「他に何も気にしちゃいないよ」
ユウはとても優しい顔をしていた。なんとなく、ユウに心惹かれる女子たちの気持ちも、少しだけ判るような気がした。今ここで女の子になってどうするんだ、とも思ったけど。
「さて」
健太がおもむろに立ち上がって大きな声で言った。
「無事和平条約も締結されたことだし、本題に入りますか」
「さいですね」
ユウもそれに乗っかって、二人して同時にあたしのほうをみた。
あたしは訳も判らず、ただ二人のペースに合わせて相槌を打つだけしか出来なかった。


その日あたしに与えられたのは、あたしの人生を揺るがすのであろう試練だった。
そう、それは大方の予想通り。
『上原さんに気持ちを伝えること』だった。
それから一週間、あたしは健太と上原さんの周辺事項、つまり、下校時間とか友達関係だとかを調べたり−ひとつ間違えれば犯罪すれすれだけど−ユウの女の子の落とし方講座を受講したり、一人で妄想トレーニングを行ってみたり。
いわゆる、恋する女の子になっていた。
そして、いざ決行の日。
あたしは調べに調べ上げたデータを胆に据え、学校へとやってきた。
決行時間は本日ヒトロクマルマル、人の刷けた教室にて行われる。もちろんのこと、あたしは授業に集中なんかできるわけがなかった。
終業のベルが鳴り、各々が配置につく。屋上に陣取ったあたしに作戦参謀のユウから電話が来る。
「はい、こちら美羽」
「こちら参謀」
なんだか本格的になってきて、興奮するのと同時に怖くもなった。
「作戦はヒトロクマルマル202教室にて行われる。貴様、作戦はしっかりと頭に叩き込んであるな」
「当然であります、隊長殿」
「隊長ではない、参謀だ」
どちらでもいい。
「まぁいい。今から作戦内容を復唱するぞ」
「はっ」
「まず、健太軍曹と私がどうにかして彼女を教室に追い込む」
「ふむ」
「そこで君がぐっと気の利いた台詞で彼女の心をつかむ。以上だ」
「・・・以上、でありますか」
「以上だ」
これのどこが作戦だっていうのか。簡単に言えば、ただ正面からぶつかるだけの話だ。
でもあたしにも他にいい案が出なかったんだから、責任の一端はあるのだと思うと、何もいえない。
「大丈夫」
少しだけ不安になっている私の元に、健太の声が届いた。
「俺たちがついてる。頑張れ」
「・・・うん」
ぐらついた私の足元をしっかりと立ちなおしてくれる、優しい声。
屋上の景色を見ながら、私は少しずつ動悸を鎮めていった。

それから一時間たったとは思わなかった。
思いようによっては十分にも満たない時間だったし、二時間だといわれればそれぐらいだったような気もする。
その間あたしの頭の中は上原さんでいっぱいだったんだけれど、それは満タンじゃなくて。
隙間のある充足感。何かが足りないような気持ちだった。
上原さんがいて、幸せなのは間違いない。でも、それだけであたしが「幸せ」なのかと言われればそうじゃないような気がする。
そんな答えのない逡巡のうちに健太たちからメールが来た。
【準備は万端!あとはぶつかるだけだ!がんばれ!幸運を祈る】
思わず笑みがこぼれて、あたしは決戦へと臨む。
足りないものの正体がわかった。
そんな気のする、メールだった。
いざ教室の前に立ってみると、いろんなことが思い出された。
いつもと変わらない日常。
上原さんに恋をしたと気付いたこと。
ユウとケンカしたこと。
健太に慰めてもらったこと。
いま、かけがえのないあたしの親友たちがあたしのために努力してくれていること。
そのどれもに感謝の気持ちを伝えるためにも、あたしはこの恋を成就させなきゃいけない。
あたしだけのためじゃない。皆のためにも。
そう思ったら、体がまたひとつすっと軽くなった気がした。



夕暮れが近づいてきて、校舎には人気がなくなっていった。
あたしは健太たちの待つ校門の前へと歩を進める。
健太たちはこちらに気付いたようで、それぞれ慌てたり、神妙な面持ちでいたりしている。
近くによると、夕日が逆光になって二人の顔が見えなかった。
「どうだった?」
あぁ、この声は健太だな。自分のことじゃないのにここまで親身になって慌ててくれる。
こいつは健太だ。
「ちゃんと言えた?全部、ちゃんと」
この声はユウか。いつもふらふらしてるくせに、しっかりした軸を持ってちゃんと後ろで見ていてくれる。
こいつはユウ。
「ん」
あたしは甘えるように、逆光に目がくらんだふりをして下を向いて言った。
夕焼け坊主があたしたちの影を路面に映していく。
三人の影の背がちょうど同じくらいになって、まるで兄弟みたいに思えたりして愛おしかった。

「上原さん、彼氏いるんだって」

うそだろ、と健太が驚いて言った。ユウは黙ったままだった。
「しかももう二年だって。二年だよ?」
あたしは手でピースサインを作って、健太たちに示した。
出来るだけ明るく、笑いながら。
「でも、俺たちが尾けてた時には男の影なんて」
「そりゃないって。二高の人なんだってさ」
「マジですか」
ユウがちょっとびっくりしたように相槌を打った。
「ユウ、知ってたんじゃないの」
あたしは静かに言った。ここでユウを責め立てる気もさらさらなかったし、何より、ユウが素直に驚いたことに、単純に興味が湧いただけだったから。
ユウは足元の石ころを弄びながら、しばらく何も言わなかった。
「ん、まぁね」
足元の石ころが届かなくなったところで、意を決したようにユウはそう口を開いた。
「そっか」
「まさか、二高にいるとはね。あそこは僕の管轄外だし」
「ばーか」
そう言ってあたしはユウをちょっと小突いて笑った。
「あたしが、ちゃんと言えるように黙ってたんでしょ」
「知らないよ」
そう言ってユウはまた後ろを向いて、ゆみちゃんにコールし始めた。照れ隠しが下手なヤツ。
健太はそんな様子のあたしを見て不思議な顔をしている。
なんでそんな元気な顔でいられるのか、と問いたいのだろう、きっと。
あたしにはその問いが怖かった。
健太はあたしの下手糞な強がりに、下手糞な優しさで答えてくれるだろうから。
そうしたら、あたしが今まで堪えてきたものが全て。
「なぁ」
「何」
「無理すんなよ」
全て、流れ出てしまいそうで。

「泣いても、いいんだぞ」

そう言って健太はあたしの肩をそっと抱いた。
あたしのちゃちな結界はそこですぐに壊れて、あふれ出るものをとめることができなかった。
校門で情けないくらいに大きな声で、泣いた。
そんなあたしの肩を健太はいつまでもそっと抱いていて、ユウはかけてもいない電話を続けるふりをしていつまでも待っていてくれた。
夏が始まるほんの少し前。
夕暮れに気持ちのいい風が通りすぎていって、あたしはこの幸せな日々を平凡だなんて思った自分を、強く恥じた。




Fin

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2007年07月25日

ユレロ・ボレロ(1)

ユレロボレロ

「君はどーすんの?」
「そう言うお前はどーすんのさ」
「あたしはあれだね、えー、んーとね」
「うん」
「いやぁー・・・特にないね」
「やっぱしか」
「やっぱしです」
五月晴れのゆるやかな日差しが気持ちいい午後。
オンボロな校舎の一番上の階の、一番端っこ。もうひとつおまけに、一番後ろの一番窓側で、あたしと健太はいつもどおり螺旋みたいにダラダラと決まりのない会話をただ繰り返していた。
金曜日の昼休みなんかには、あたしと健太は毎週いつも同じ問答をしている。目下埋められているであろう、週末の予定を話し合うんだけれど、こんな話題をどちらともなく切り出すときには、決まってお互いどちらにも確約とした予定なんかない。
これが平坦な日常。
何の変哲もなく、またこの高校を去るまでに変わらない日常。
でもあたしはそれがつまらないとか、面白すぎるーそんなことがあるはずもないけどーなんて愚痴を言うつもりはさらさらない。
あたしにはもちろん友達もそれなりにいるし、まぁ人並みに愛している家族もいれば、将来の夢だって、断然ないわけじゃない。
ひとつだけ物足りないとすれば、あたしの周りにこれっぽっちも惚れた腫れたの類のうわさがないことだ。
男の子に人気がない、っていう事もない、と思う、・・・ああでも女のミリョクとやらがワタクシに無いことははっきりとわかっております。胸がたっぷりありゃいいってもんじゃないでしょうに。
その分上原さんはすごい、ほんとに。女のあたしでも惚れ惚れするような長くて黒い髪に、すらっとした体形で、目だってこれでもかってぐらいぱっちりでいらっしゃる。さすが我が3組のアイドルとでも申しましょうか。それで黒い噂を全く聞かないんだから。僻んでるわけじゃないけど、男子がみんなあっちに惹きつけられるのも当然だ。勝ち目なんてない。
しかし、何よりあたしが問題だと思うのはやっぱり健太だ。
まぁ高校に入ってからってもの、一年の頃からあたしの後ろをヒヨコみたいにちょろちょろしちゃって。そのインプリンティングのきっかけはなんだって一体。二年で何故にクラスを分けてくれなかったんだ、カミサマ。いやむしろ校長。ん、クラス分けは校長の仕事じゃないか。
そんなこと言いながらあたしも、健太のことが嫌いなわけじゃないし、まぁ何だかんだ苦にもせずいつも一緒にいるわけだからよくない。そりゃああたしが担任でも、こいつら付き合ってると思うしかないだろう。
というわけでこのクラスの共通認識と、あたしの貧相なミリョクも相まって、春風なんかあたしのもとには吹かないと。そういう結論にはや17歳で至ってしまったわけで。
でもあたしはそうやって今まで生きてきたわけだし、これからもきっとそうなんだろうと思う。
自分が限られたギフトを持っている人間だなんてさらさらそんな気はないけど、こうも明々白々に自分が超一般人だとわからされると、ちょっとだけおセンチでもあるけれど。
「また諸行無常の会合?」
「五月蝿い」
いつもふらふらしてるような軟派野郎のお出ましだ。
うちは茶髪が禁止だってのに、いつになったら帰化するんだよこの似非外国人が。
なんて憎まれ口を叩こうと思っても、何を言ったってこいつにはなんらダメージがないんだから言わないことにしてる。これもいつもの事。
「ユウはなんかあるわけ?」
健太がきっと何の気もなしに聞いたのであろうその台詞を止められなかったのを、あたしはすぐに悔いた。
「俺はゆみちゃんとデートだ、デート」
「・・・聞いた俺が馬鹿だったよ」
聞かなくてもお前は馬鹿だよ健太。
窓の外を眺めながら、あたしは心の中でそう毒づいた。



軽い挨拶を交わした後、私たち三人はそれぞれ家路に着いた。
ユウは奥さんのオウチにお泊りだとか言うから放置してきた。前から健太ほどずっとつるんできたわけじゃなかったけど、あいつは今の奥さんにまぁ、ご執心。あたしたちは暗黙の了解でそれを嗜めるようなことはしないけど、何となく釈然としないところがあるのもまた事実だ。
健太の自転車の後ろに乗りながら、あたしはぼうっとそんな事を考えていた。
「ね、健太」
「あん?」
「こういうのって恋人同士がやることなんだよね、パンピー達の間じゃさ」
「なにそれ?遠まわしな告白?」
「あんた、その若さで死にたいの?」
「俺だってお前なんかとそんな風に思ってねーよ」
あたし達は少しだけ無言になった。あたしもどうしてこんなに捻くれて育ってしまったんだろう。
「ユウさ」
「え?聞こえね」
「ユウのこと」
「どうかした?」
「あれが俗に言うコーコーセーって奴なんだろうか」
「なにが!」
健太は上り坂に入ってちょっときつそうだった。うっすらとシャツに汗がにじんでいて、こいつも男なんだなぁとか当たり前のことを馬鹿みたいに思ったりした。
普通の女子ならきっと、こういうふとした仕草にときめいたり、男らしさみたいなものに惹かれたりとかするんだろう。
でもあたしは何も思わない。きっとマンガとかドラマとかなら、これが恋の始まりだって気付かないっていうパターンなんだろうけど、あたしは決定的に違う何かを感じていた。
健太だからとかじゃなくて、もっと違う、もっと大きな違和感を。
「もういいや」
「なんだよお前、ユウのこと気になんの?」
「ふざけろ」
そう言って健太の頭を殴ると、健太はいて、なんて悪戯っぽく笑って、少しだけスピードをあげた。こうしていることがあたしの日常で、きっと将来幸せだったと言える思い出になるんだろうと思うと、やっぱり何か少し違う気がした。


部屋着に着替えて、テレビを見て、夕御飯を食べて、お風呂に入って、メールをチェックして、それで大概、あたしの一日は終わる。
今日も途中までは全く一緒だった。しかし、ほんの些細な愚図で、あたしの平々凡々な人間性はいとも簡単に崩れ落ちた。
お風呂から出て、久々に出た「宿題」とか言う忌々しい責務と格闘していると、どうにもこうにも、にっちもさっちも進まない。ダメなときは何をやってもダメだ、なんて言うのがあたしのある程度モットーではあったんだけど、如何せんこいつと先生はそんな悠長な言い訳を認めてくれるはずもない。
そこで仕方なくあたしは、大学生の兄を頼る羽目になった。
兄は普通だ。これといって特徴がない。そこそこいい奴で、そこそこ格好良くて、そこそこ勉強も出来るから、そこそこの大学に去年そこそこの成績で入った。特徴がないのが特徴なんていう悲しいやつだけれど、あんまり悪く言うことも出来ない。
あたしにもその血はしっかりと受け継がれて流れているのだし、何より今からあたしはその「悲しいやつ」に教えを乞いにいくのだから。
「兄ちゃん」
部屋の外から呼びかけてみる。が、返事がない。
もう寝ているのかもしれない。それなら話は簡単、叩き起こせば良い。
そっとドアを開ける。ノックもしないで入るのはどうかとも思ったけれど、声をかけて気付かないのなら、どの道ノックしたって意味がない。
中に踏み込んでみると、そこは正に地獄絵図としか言えない場所。まさか自分の家のドアが魔界に繋がっているとは。さすがのあたしにも思いもよらなかった。
脱ぎ散らかされた靴下やTシャツ、飲みかけのペットボトル、天にも届かんといわんばかりの雑誌の山。
「何をどこまで放置すればこんな世界が生まれるんだよ・・・」
思わず独り言が出る。
しかし、どうやらお兄様は外出中なのか、何なのか。とりあえずお部屋にはいらっしゃらないようなので、これは千載一遇のチャンス。
「お部屋でも拝見させていただこうか」
文字通り足の踏み場もないような異界の地を、あたしは何のとまどいもなく突き進んでいく。当然のことだ。此処にある何もかも、あたしにとって大切なものなどあろうはずがない、遠慮なんかする気は毛頭ない。
しかしその時、予期せぬ闖入者を排除しようとする、その部屋の意思が私に牙を向いたのだ。
あたしは何も考えず、思いっきりベッドに反動をつけて座った。今思えばあれが私の最大限のミスだった。
もう十年近くも一人の男の体重を支え続けてきたベッドのスプリングが、よくよく考えればいつまでも五体満足でいるはずがないのだ。
そして禍々しい音と振動とともに、ベッドのスプリングは凹み、その脇にあったダンボールがあたし目掛けて降りかかってきた。
「痛!」
ほんとに目から火花が出るほど痛くて、突発的にあたしはそんな声を出した。まさか最大積載量を超えたヤツがいたとは、流石のあたしも不覚だった。
恐る恐る目を開けてみると、さっきよりほんの少し部屋が散らかっているようにしか見えなかった。最初から汚れていたのだから、当然といえば当然なんだけど。
ひとつため息をして起き上がろうとする。頭の天辺らへんがじんわりと痛くなってきた。誰が悪いわけでもない。むしろ、あたししか悪いやつはいない。法廷でも勝算はまるでない。しかし、こう誰にも八つ当たり出来ないムカムカは、どうしてか普通の痛みよりも断然痛い気がする。
その時あたしは見つけてしまったのだ。兄の、その、なんというか、そりゃあ兄ちゃんだって男なんだから、まぁ当然といえば当然なんだろうけれど。
とどのつまり、あたしがもたらした厄災は兄の秘蔵っ子―であるのであろうーいかがわしい本やビデオ達だったわけだ。
前述したとおり、あたしには恋人もいなければ思い人もいない。とすれば、勿論そういったケイケンがあるはずもなく。そして私も年頃の女の子なわけで。
忍び忍びその中の一冊を手にとってみる。表紙の女の人がなんだか凄いことになっている。なんだか見覚えがあるような気がして引っかかるけど、どうも思い出せない。
「結構ふつうっぽい人なんだな・・・」
あたしはまた一人でぶつぶつ言って、表紙をよく見る。
なんだかユウがこそこそ健太に教えてるーんだろうと私は思うーような単語が目白押しだった。まぁよくもこんなに卑猥な字面がすらすらと並べられるものだ。
「だから健太が『濡れる』なんて漢字、書けたわけだ」
ページをぱらぱらと捲ってみる。そのどれもがあたしには未知の領域で、少しだけ息が上がった。
動悸が激しくなる。女の人の綺麗な体、それに被さるようにいる男の人、男性のそれを口に迎える女性。
しかし、これを性的興奮と呼べるかは微妙なところだった。なんだか、お化け屋敷とは少し違うけれど、何も判らないところに一人で歩いているような高揚感。真っ暗の道で肝試しをしているそれとよく似ているような気がする。
その中であたしが一番目を奪われたのは、表紙の彼女のグラビアのページだった。
彼女の美しい肢体、悩ましげな瞳、艶やかな髪、ちょうど良い乳房、それらにあたしは一番興奮していたのだ。
女性としての憧れではない。ただ頬が上気して、頭の中が真っ白になっていく。
男性のそれではなく、女性のそれに、あたしは興奮していた。
しばらくあたしは放心していて、兄の怒号とげんこつでようやく現実に戻ってきたのだった。



つづく。
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2007年07月11日

百合

コート・ノワールというのは豚の臓物を煮たものであるらしい。塩や酒や、ありとあらゆる調味料を絶妙に配合させたスープにその臓物の最上の部分を加える。ものによっては三四日じっくりと煮込んでいく。そうして蓋を開ければとろとろとした粘り気が肉に絡み付いて、食欲をそそる。
分厚く千切られていく腸を眺めながら私は食欲を刺激される。
ケバブゥだかいう西洋のものも特にそうだ。真鍮か銅か、おそらくは熱伝導が酷く善いものなのだろうけれど、その棒を取り囲むように大量の肉が纏わりついていて、それを刃物で薄く切り取っていくものである。肉汁が垂れて、もうたまらず唾を飲んでしまうこともよくある。
喰うときのわたしはまた鬼気迫るものがあるだろうと思う。
まさに一心不乱にその対象と戦い、両の目はじろりとそいつを見据えるのである。酒は呑まぬ。白飯も出来れば喰いたくはない。わたしはただそれを食したいのである。
空腹が最大の調味料だといわれるようにわたしはそいつに最大の敬意を払ってやりたいのだ。
さういえばこんな話を聞いたことがある。昔の昔、大東亜ぐらいのころにたった一人ぼっちで人気のない島に取り残された西洋人が居ったそうで、最初の数日ほどはよかったものの、やはり日がたって行けば腹が減って仕様がない。しかし探れども探れども、なんとも喰えるようなものは見つからない。もちろん喰おうと思えば喰えるようなものは沢山あったのだと聞く。芋の根であるとか木の幹であるとか、絶腹であったならば喰える様なものも多かったらしい。
されど欧米の腹の虫は愚かなものである。
もう如何にも肉が喰いたかった。そう男はたまたま居合わせた日本人の漁船の中で泣く泣くそう、たどたどしく話したそうである。
魚の肉も獣の肉もあったろうにとその漁師が言いにくそうに零したという。きっと西洋の男には方言などわからなかったろうから、真意は汲み取れなかったのだと思う。日本人の奥ゆかしさはそこのあたりにも生きていた。
両の足をぼろぼろに噛み砕いた異人への、わずかな憐憫の情と酌量の美であろう。
そんなことを思いながら、私の足はどんな味がするのだろう等とふと考える。痛みとか恐怖とかそこのあたりの意識はひとまず置いておいて味単体だけを夢想してみる。生臭いだろう、おそらく。
そのままわたしは血が滴り落ちるビフテキをかみ締めながら美味いと思う。この唾液はたぶんこの牛肉の所為だろう。たぶん。
妻がそんなわたしを見て笑う。わたしが問いただすとまるで子供みたいにお笑いになるけん可笑しくてなんて言い訳をする。
わたしはとりあえず馬鹿みたいにふくれてみる。
レンガ灯の明かりに、妻のふくらはぎが恐ろしいほどしなやかに映り、またわずかに星が少なくなった。木々が風でばさばさと凪る。ナイフとフォークのかちかち言う音だけが静かに空気を震わせていた。






おわり。
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2007年07月06日

厭だ

近藤君は死神が来たと言うて居る。
僕はそんなものに一寸も興味が無いし、またそれを信じようと言う気もないのだけれど、
あの近藤君が言うものだから尋いた。
「もしもし、近藤助士」
「なんだいサトウくん。僕は今とても忙しいのだ」
「例の話なんだがね」
「ああ、だから小生は今とても忙しい」
「そうかい」
「概ね太宰先生の新作の話だろう?確か『晩年』とか云う」
「あれ、そうではない」
「そうではないと云うならプロレタリアートのことかい。あれを語るには今は時間は惜しいのだ、サトウくん」
「それでもないのだ」
「だったら何だと云うんだい。僕には今の責務より上達な問題はそれ以外に無い」
「かつて君は云っていたろう。死神が何とか」
「ああ」
近藤助士は恨めしそうな目で僕を見た。唇の形は辞典で見たラフレシアとやらに酷く似ている。
どのみち醜悪であったことに変わりは無い。
「そんな話を小生にしろと云うのかい」
「君以外の誰にも聞けやしない」
「それだったら君は死ぬことも辞さないということだな」
「え?」








つづくー。
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2007年06月10日

シニモノグルイ その1

僕がその時乗っていたのは、いつもの京王線ではなくて東横線だった。
もうすでにその頃は慢性的な厭世観に襲われていることが常だった。と言っても、そこらの知識人たちの言う思春期の多感性からくるそれとは、決定的に違うものだったけれど。世の中を敬遠するという行為にすら、僕はうんざりしていたのだ。
ふと車内の中刷り広告に目を奪われる。卑猥な文字列と下種な謳い文句が目印の、ごくごく一般的な週刊誌の宣伝。それにいかほどの価値があるのか疑わしかったが、僕を最も嫌な気分にさせたのはその中の一行だった。
―また中学生が自殺 動機見当たらずー
それは、僕が中学生であったからではない。むしろ、その被害者が“すでに”中学生であったからこそ僕はその事実を受け流すことが出来たと言える。
僕は幼い頃からモノの死が判った。
より正確に言うならば、知覚することが出来たと言うべきだろうか。僕には人に死をもたらす“モノ”が見えたのだ。勿論、自分以外の人には見えないというのはすでにわかっていた。「死ぬ」事に皆が驚いているからだった。もし自分と同じならば何も驚くことはない。
“モノ”というと語弊があるかもしれない。ただ、存在していることは確かなのだ。
実体は半透明で流動性があり、色合い的にはポリエステルのゴミ袋といった感じで、ヘドロやアメーバのように何か粘性を感じるもので出来ている。それが漂うところには、真夏の道路の上の蜃気楼よりははっきりと、でも海に浮かぶクラゲの姿よりはぼんやりと、境界線が浮かび上がっている。人間で言うところの目の辺りにはペットボトルの蓋ぐらいの穴が二つ開いており、口の辺りには爪楊枝みたいな裂け目が一つある。その裂け目が空気の振動具合によって寄生主を嘲笑するかのように見える。
それはこの世界における生命を持つありとあらゆるものにくっついている。犬でも、鳥でも、人間ですら例外でなく。その生命体の頭部よりやや小さめの違和感が、うなじのしたあたりにあるのだ。
それが実際に何かを「殺す」のをはじめてみたのは小学校の二年の時だった。
僕は友達と一緒に学区の公園で遊んでいた。学校は土曜で昼までで終わり、僕らは汗だくになりながらカンケリをしていた。そう、ちょうど今みたいな真夏の昼下がり。
その公園にはいつも三時前になると、犬を連れた売り子のお爺さんがやってきた。お爺さんはまるで僕らを本当の孫のように本気で可愛がってくれ、時にはイタズラがばれて半べそになるまで叱られたこともあった。僕らはお爺さんのことを「わらびのおじさん」と呼んでいた。わらび餅を売っていたから、という安直な仇名だったけれど。
その日も、いつものように愛犬のマメを連れてわらびのおじさんがやってきた。それが僕らにとっては一つの時間のバロメーターというか、前半終了のホイッスルのような、一休みの区切りになっていた。おじさんはまたいつものようにわらび餅を二人に一つくれた。それをほおばる僕らを見ながらおじさんはちょっとだけ悲しそうな顔をした。僕がそれを気取ったことに気付いたのか、おじさんはぽつりと話した。
「最近、マメの元気がなくてねぇ。ご飯もよう食べんようになった」
僕はそっとマメを盗み見た。確かに、マメはくたびれたように半目を閉じて、いかにも億劫な感じで欠伸を伸ばしていた。毛並みは驚くほどばらばらで、尻尾も今まさに千切れてしまいそうなほどにへたれていた。でも僕はまだ大丈夫だという確信があった。なぜなら、死を司る例のアレはまだ恨めしそうにマメの背中で蠢いていたからだ。だから僕は、わらびのおじさんを元気づけたい一心ではつらつと言った。
「おじさん、マメはまだ大丈夫だよ」
「ほう。そうかね。ヒデ君は優しいなぁ」
おじさんは目元を細めて微笑んだ。そして僕の頭を優しくなでながら続けた。
「マメもここまで大事にしてくれる人がおったら、易々とは死ねんなぁ」
マメは答える代わりにぐぅ、と喉を鳴らした。どっこいせ、とおじさんが立ち上がった。

その時僕は見てしまった。
わらびおじさんのアレが、もうほとんど残っていない背中を。

僕は衝撃と焦りのあまり、いてもたってもいられなくなった。
「おじさん」
「ん?」
「おじさん、」
目元が上手く定まらなくて、しどろもどろになってしまう。子供ながらに芽生えた自制心が無邪気さに負けてしまう。
「おじさん、しんじゃうよ」
「え?」
「おじさん、もう死んじゃう」
周りの友達はみな思い思いの会話に花を咲かせている。僕とおじさんの間に流れる空気だけが意識を超越したわだかまりみたいになっていた。おじさんは一瞬怪訝そうな顔をして、その後、平静に戻り、
「ヒデ君」
「そういう事を人に言ったらいかん」
と言って僕の頭を軽くごつん、とした。それから、
「おじさんはまだまだ、君らがおじさんぐらいになるまでは生きておるよ」
と笑ってマメの手綱を手に取り、公園を離れていった。僕はそれをやっぱり誰にも言うことが出来ずに、その日の夕暮れがなるだけ早く来るように願うしかなかった。
その日から一週間、わらびのおじさんは公園に表れなかった。みんなはそれによって遊びのペース配分が出来なくなったようで、公園から次第に足が遠のいていった。僕もそれに追従しないわけにはいかずに、別の遊び場を発掘する作業に入っていった。

それから更に一週間後、あの日の次の日に自宅でわらびおじさんが絶命していたという話を聞いた。心筋梗塞だったらしい。過去に何度もやっていて、医者からも生涯付き添っていかなければならないだろう、と宣告されていたらしい。母と父との会話ではそういうことになっていた。

それ以来、僕は犬を極端に避けるようになった。
きっとそれは幼心に生まれた妙な罪悪感に自分が潰されないようにと編み出した、僕なりの処世術だったんだろうと思う。現に、まだそのトラウマは消えていない。
そんな物思いに耽っている間に、電車は目的の駅についたようだ。各駅でしかとまらないその場所で乗り降りする人はまばらで、今しがた気付いていなければ降りすごしていたところだった。
改札を抜ける。その順番待ちの間にも僕はそれらを見なければいけなかった。安穏と新聞を広げる男性も、ぺちゃくちゃと大騒ぎをする女子高生の背中にも、当然それは蔓延っている。自分でも不思議に思うのは、あれ以来十年以上も人の死期を否応なしに見せ付けられているのに狂わないのかということだった。簡単に慣れてしまえるものでもないし、勿論それを才能だと思ったりもしなかった。
ただ漫然と人が死ぬのを眺めている。
死ぬ現場を見たことは一度もない。でも、「眺めている」というのが一番しっくりくるとは思った。
目的地を探す。真夏の太陽の日差しで、車内のクーラーに冷え切った体が目覚めるようだ。東京では人波が早く立ち止まることさえ難儀である。皆それを思っているはずなのにどうしてかその波は一瞬たりとも消える素振りを見せたことがない。でも僕はきっとそれが人だ、と納得する。死ぬのがわかっているのに、それは皆に平等だと信じているのに焦ろうとする。死が見えないからだ。それでは死が見える僕は何だ?神か、その末裔だといわれれば信じられる要素はごまんとある。
思い直したところで僕はふっと笑った。思い上がりも甚だしい。きっと世の中には同じような事態に陥ってる人がいくらかいるはずだ。別に一神教徒ではないけれど、八百万の神を信じてはいない。たぶんそれは潜水の世界記録保持者が自分はクジラの生まれ変わりだ、と囃しているのと大して変わらない。
目印のぽつんとした廃屋を見つけ、そこの角を曲がると、いかにも私有地のような荒れ果てた道を一筋見つけた。ここらは主幹道路よりだいぶ離れているし、ここを一人で通るのはとても勇気が要った。周りに人家らしきものもそれ以外の必要とされるものもないように思えた。東京のエアポケットここに見たり、と思い僕は少しだけ好奇心をくすぐられた。それにしても、この様な場所が東京にまだ残っているとは。
コンクリに舗装されていない道を久しぶりに歩いた気がした。一歩踏みしめるごとに蒸れた土の香りがふわっと立ち上る。暑さも和らいでいるし、なんだか僕にはそこが落ち着ける場所みたいに思えた。
しかし、それにしても見当たらない。記憶ではあの雑然とした通りを一つ抜ければ、後はほとんど一本道だったと思うのだが。すぐに僕は臆病風に吹かれ、真昼でも木々の隙間になっている薄暗い道を振り返った。案の定人影は見えない。とはいえ、ここで引き返すのも気が引けることには間違いない。とりあえず僕はとぼとぼと歩き出すことにした。
如何ほど歩いたろう、道はどんどん奥に奥に、詰まるところなく続いているように見える。街灯は見当たらない。それほどまでに人々から拒否された場所なのだ、ここは。だんだんと恐ろしさが増してくる。そろそろ引き返すべきだろうか。
と、その時何か左耳でざわつくものを感じた。木々がさらに侵食してきていて、より一層道が狭まっているのだ。僕が聞いたのはその木々の葉擦れだった。思わず立ち止まり、自らを鼓舞しようかどうかすら逡巡していたときにふと気付いた。
「・・・あった」



posted by dd at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 自作プロット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月26日

ブラック アンド モア

というタイトルのプロットを書いていたのだけれど、
自分で何が書きたいのか全然わからなくなって筆が止まっておる。

なんか衝動的にただグロい描写をすればいいんだ!
みたいなおかしな思考で勢いで書いてしまったからかも。

70Pぐらい書いてたんだけどなぁ・・・
とてもとても人に読ませられるものではない。


てゆうか、
池田くんの映画の脚本も、いいかげんっちゃあいい加減だ。

なんというか、
俺の文字連がそのまま作品になるわけではなくて。

それが
池田くんのメガホンを通して、
演者さん達の台詞を通して、
フィルムと云う無機質の中に伝導されて、

ようやく他人と云う評価機関に晒されるものなんだよな。

そうしたら、
俺の中で「ユレロ・ボレロ」という作品を完成させてしまう事は、
何のプラスにもならなくて。
むしろマイナスにすら成り得るかも知れない。

その気遣い、というのはおかしいけど、
なんかいつも書いてるように、やりたいようには書けなかった。
説明不足な所も、動機がいまいちつかめないところもある。

もっとボリュームを出して説明がしたかったんだ。
ユウくんのエピソードも、
美羽ちゃんの家庭環境も、
健太の真っ直ぐさも、
上原さんのあの部分とか、
平坦な毎日も、

深みを出すような記述をもっとしたかったなぁ。
あくまで読み物として、俺としての主張なんだけど。
ってまるで言い訳か予防線みたいに見えるけどさ。


とりあえず、
池田監督は賢い人だから、
ちゃんと俺の意図すべきところをあらわしてくれることと思う。

ていうか、
最近俺その事とバイトのことと女のことしか考えてない。
それは決して健常ではないと思うんだけどね。

でも前よりは格段に充実してる。


まぁ、なんだ。
オレスカバンドのドラムがじゃが肉MENだったとは初耳だった。
テレビで知るなんて・・・俺はしょっくだよ、じゃが。
posted by dd at 05:10| Comment(3) | TrackBack(2) | 自作プロット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月25日

零(その1)

「あんまり馬鹿を言うもんじゃないよ」
下北沢の薄暗いサテンの中で、彼はそれだけ呟いた。
「そんな事、もう他の人には言わないほうがいいぜ。気が振れてると思われても仕様がない」
意地悪な口調でそう言い終えると、珈琲の入ったカップをそっと持ち上げる。左手首には、シンプルなのだけれど存在感のある年季の入った腕時計が光っている。材質から大きさまで、そこら辺にありそうでないようなデザインだ。まさに、特徴のないのが特徴とでも言うべきなんだろう。
「第一、なんだ」
一口だけ口をつけて彼は話し出す。カップを戻すと同時に、真新しいシャツの袖の中に腕時計が吸い込まれていった。
「物理学の権威の僕に向かってそんな話を切り出すとは。喧嘩でも売っているつもりなのか」
「そんなこと」
「じゃあ何故そんなくだらないことを言うのだ、しかも、この私に、だ」
両の手のひらで自分の胸あたりを抑えて彼は言う。外国人みたいな素振りにもいい加減慣れてきたところだけれど。
しかし、どうしてこう権威と云うものは人を醜くさせるのだろう。
ほんの一行、自分の名刺に余分な件が増えるだけだというのに、人はそれを求めて止まない。やれ免許だやれ資格だと、下らないと私は思う。
でもそれは私自身が何の肩書きも持っていないという点で、僻んでいるだけなのかもしれない。勿論、私を判別する記号みたいなものはいくらでもある。名前、性別、血液型、住所。
でもそんなものは皆が皆持っている。私だけのものじゃあない。もしかしたら、権力と云うものは何かしらの魔法みたいなものなのかも知れない。自分を、等身大よりも大きく見せることのできる何かであるのは間違いない。
けれど、大きくなった分細かいところの粗が目立つようになるというのは、何とも皮肉なことだ。
「勿論、お前はそんな事を言う前に、物理学の何たるかを多少は勉強してきたんだろうな」







続く。


のか?
posted by dd at 23:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 自作プロット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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