2008年03月16日

面倒なおはなし

作文書いていたけど止まってしまった。
80行ぐらいは書けたのでまぁよしとしようか。

何時間かわからんけどなぁ。
これで80そこらしか書けないって言う事は、
まぁとりあえず俺に才能はないってことのようだw

でも好きだからやめられないのよね。
こんなに苦しい事はないよなぁ。

んー、いや勿論、
才能がある人間だって楽に作文作りあげているわけではない。
そんなこと重々承知の助ですよ。

でもあれだよね、
書き終わって「ふー」ってなって読み返してみたら
「なんだこのメモ」ってなるとやっぱりね。へこむよね。


もちろん創造における想像ってものは、
ある種の決定感というか、ボローゼの言うような
ノンフィクションの経験でしか語れないものなんだ。

ボローゼ読んでもらうのが一番なんだけど、
まぁ面倒だろうしやめよう。

簡単に言えば、


ってとこまで書いて思ったけど、
簡単に書くのはじつはあんまり気が乗らないんだよ。

なんでわざわざ難解な言葉を使うかっていったら、
その言葉を使わないと文節がより難解になって

結局意思疎通というか、
よけい意味がわかりにくくなってしまうからなんだよね。

だから俺が簡単な言葉で言うと、
それは俺のフィルターを通して諸君らに伝わるわけで。
その言説は少なくとも俺の主観が多少は交じってて、
誤解を生んだり齟齬を生んだりするんだな。

と言っても面白くない人もいるだろうから、
ちょっと噛み砕いて話そうか。


創造における想像っていうのは、
つまり「これが普通だ、常識だ」というもののラインというかな。


たとえば、
Dirのライブに行ったことない人というのは、
「気持ち悪い」「うるさい」「ヴィジュアル系」とか
そういうイメージがあるんだろう、多分。

でもしかし、経験したことがないものを、
脳というものが再生することはないんだよ。
決して絶対に。


だってそうだろう?
じゃあ「死ぬ」ってどういう感覚か知っているやついるか?


だからそれは、
あくまでもDirを知った「媒体」というものに
少なからず影響されるわけだ。

俺がカラオケで歌っただとか、
CDTVで見ただとかさ。


それをね、その人たちが文で書くとするなら
(創作というものは文学だけではないけども)
どういう注意を持って作成するべきか、というね。

そういうことなのです>創造における想像



えーと、これを真に受けてしまった人。

もうその時点で創作者としてはまだまだだということです。
いや俺が達観しているわけではないけど。



ならば経験した事がないものを創作するのは
不可能なのか。

それを可能にするのが「経験則」というものです。

経験というものには経験則というオマケがついてくる。
それは自分の記憶(つまり経験)から、
その事象を推測して表現する能力ですな。

上の例でいえば、
他のヴィジュアル系を聞いたことがあるとか、
自分の思う「気持ち悪いもの」から連想したとか。
そういうことです。

並列関係と相互紡績を行っているつもりなのに、
結局は自分の中の飽和価値観でしかモノを見れないんですね。
悲しいことに人間というものは。

それが「知」の愚かさであってね。
まぁそれは論題とずれるから辞めよう。


えーとつまり、
俺が「女性」を書こうと思うなら、
俺は認識出来うる限りの「女性」を知らなきゃいかんのですよ。

そうすれば経験則はどんどん収束していって
より平均としての「女性」像に確立されて投影されるわけです。

つまり、
そういう努力をしていない創造なんてのは
ただのオナニーだろ?と。
もうむちゃくちゃ簡単に言えばそんな感じ。

対人関係も同じなんですよ。
算数の公式と同じように
仕組みを理解しなきゃ応用も出来ないんですよ。

まぁこれも俺の経験+経験則なんだけどね。
ようは情報の取捨選択っていう話さ。

対人関係で、
この創造の想像の理論をつかうことが出来ない奴を
俺は「馬鹿」と呼びます。覚えておいてね。ここテストに出るよ。

体感している人は大丈夫なんだけどねえ。
それこそまさに「経験」の生み出すものなんだから。
むしろ俺の方がまがい物なわけです。



俺が宮部みゆきを嫌うのは、
それが出来ていないからってのが最も大きいんですが、
まぁよい。


とりあえず、
何だかんだ書いてきたけど読むのが面倒な人のために書けば
「知らない人間は知れない」ってことか。

ほら。また全然意味合いが違ってくるでしょ?
これが難儀なもんでね。
理解してくれた人は頷けたはずだ。


だがこれも俺の経験則でしかない。


俺が断言することの恐怖を説く理由が、
これで少しでもわかってくれたかな?

わかってくれたらいいなぁ。


ここまでちゃんと読んでくれた人マジでお疲れ様w
大変だったろう。見返しもしてないし。
間違ってるとこあったら指摘してくれたらめちゃくちゃ嬉しい。
(出来たらメールで)

ということで、
もう少ししたら寝ようかな。


スルースキル高いと思ってたんだが、
俺もまだまだだなw
posted by dd at 03:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想の揚げ足 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月04日

ふと思ったんだけど

また長い間日を空けてすんません。
こまめに書かないとメールとか返すの面倒だし、
見てくれなくなる人もあるだろうから書かなきゃとは思うんだけどね。


さて、

人間にとって一番大事なものって一体なんだろうね。


金かな?
地位かな?
信用かな?
友達かな?


どれも大切なものだとは思うんだけどね。
一体どれを選んだらいいんだろう。

どれもこれもを得ているヤツなんかいないんだよ、たぶん。
物理的に不可能だと思う。

でもさ、
俺がいま一番必要だと思うのは、
ずばり「意地」だと思うんだよ。

気概と云うと語弊があるんだけど、
実際エネルギーはその言葉の向きだと思う。

「意地」っていうとどうしても、
マイナスなイメージが先行しているんだろう。


でもそれってもしかしたら凄く大事なことなんじゃないか?


何でもかんでも懐柔されるような性格ではいけないと思うんだな。
そりゃ勿論のこと、
自分がいいと思えることには挑戦すべきだし、
他人から盗むということは正解だと思う。

ただ、
譲れない部分というものをどれだけ持っていられるか。
そして、その意地がどこまで認められるのか。

人間の価値と云うものはそこで決まるのかもしれない。
そう思った。

実際、持っているだけじゃいけないんだ。
そうするとその意地はただのエゴに変わる。

自分の意地を貫き通して、
それを世界に回流させるというのが、
今の不安定な世間に「自分」という価値の旗を立てる事なんだ。

人間の価値なんてものは何回も書いてる通り、
死んだときに何を遺しているか、以外に何もない。
ゼロの概念に捉われなきゃいけない。

そうでない人間なんて絶対にいない。
何か、なんでもいい。
「創作」していない人間はただの絶対数にしかならない。


最近色んな人に会って色んな話を聞いて気付いたことは、
「創作」されるべきものは具体事象でなくてもいいんじゃないか、と言うこと。

つまり、記録に残る「創作」でなくたって構わないんじゃないか。

しかし、抽象事項、つまるところシノニムの空集合、
それが「意地」なんじゃないだろうか。

例えば、
俺がどんなものでも、
「二回以上反芻しなければその真髄はわからない」
と常々言ってきていることは、

社会的にも認知されているわけでもなく、
それが美徳であるかも確立されていないわけだけれども、
俺の意地に成り得る。

ただしそれは、
俺がその誓いを決して破ってはいけないという制約のもとで成り立つものだと言える。

そして、それを表現し、冠絶していると認められなければいけない。
簡単に言えば、それが世間に正しいと認められなければいけない。

それはとても大変なことだ。
例で言えば、
もし一回読んだだけでわかる、なんて馬鹿らしい帰謬法が証明されてしまったとしても、

それを信じ続け突き進まないと、
俺の意地はエゴに成り下がる。


これが「意地」だろう。

他にも俺は、
「聞いてもいない音楽を批判するべきではない」
「戦争はただの手段であって善悪などない」
という生命を発してきたけど、
それも意地であると思う。

そう考えれば、
一生がいつも「言ってしまったからやらなければいけない」
という意地を持っていることは、

少なくとも僕にとって、
彼の人間としての価値を認識させたものだろう。
それがとても羨ましくて、素敵だと思う。

他にもやはり、
人間として尊敬できるようなやつは、
みんなそういう「意地」を持っているんじゃなかろうか。


俺の今抱える「意地」は、
金なんか稼げないという社会的に纐纈なアンチテーゼに、
決死の覚悟で反発しながらも、

自分の書きたいように作文を書いたり、
曲を作ったりすることなんだ。

でも、
これが認められて、俺の「意地」として発現するためには、
売れて金にならなきゃいけないんだな。

なんという矛盾!
泣いて馬嘱を斬る、なんて事にならなきゃいいんだけど。
誰か教えてよ。
posted by dd at 21:08| Comment(3) | TrackBack(0) | 思想の揚げ足 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月28日

馬鹿ばっかりだ

いじめはある。
差別はある。
怠慢はある。
不条理はある。


あるんだから仕様がないじゃないか。


それを無くそうと頑張るのは別に好きにやってくれればいいが、
そんな事は無理だってみんな判ってるんだろうに。

大体、
世界中人間がいるところで差別がない所なんてない。

ジャングルの中にだって、
最先端の町にだって、
人として生を受けた以上、ヒエラルキーは生まれて然るべきなんだ。

それがアイデンティティだよ。
「わたし」が「わたし」以上足りえないために、
言い換えればそれは自己が世界だと言うことだけれど、
「わたし」以外のヒトは「わたしではないヒト」に
ならなければいけない。

「わたしではないヒト」とは何だ。
「わたし」と、

性別が違う、
身長が違う、
体重が違う、
精神が違う、
目の色が違う、

挙げていけばキリがない。
それが個人化というもので、
抽象化から具体化における絶対的なルーチンだ。

貴様ら、
それを称える運動をしていたじゃないか。

共産主義は駄目だ、個性がない。
社会主義は駄目だ、自由がない。

戦時中は軍部に強制されて戦争に狩り出された。
それがそんなに悔しかったか。

アメリカ様のものはなんでも美味しそうに見えたか。
それが我が国日本の伝統を破壊するものだとしても。

いじめなんかあるんだよ。
無くなる時は人間が滅ぶ時だ。
「わたし」が出来上がったときに
「わたしではないヒト」は出来上がるんだから。

苛められる側にも、
苛める側にも、
何の責任もない。過失もない。親の所為でも、
学校の所為でも勿論ない。

ただ、
苛められる側の「わたし」を不憫だと思うのなら、
その親は責任を感じるべきだろうな。


ただの立場なんだから。
それを苦にして死ぬのもいいだろう。
生の輝きを認められないなら、
俺も苦悶して死ぬかもしれない。


ただ、


それを作ったのは「わたし」の集合体だから。
つまり個人であるはずの「わたし」の共通項が唯一、
民主主義を取り入れることだったんだよな。

個性を伸ばして、
公をないがしろにして、
長生きすることにだけ価値があって、
伝統を破壊して、


この現実は受け入れるしかないでしょう。
個人化を進めて来て、
まぁ皮肉にも「個」じゃなく「私」が蔓延したわけだけど。
差別化を図ったんだから。

強者と弱者は生まれてくるよ。
当然のことだ。

それを求めたんだろ?

下らないなぁ。
そんなにいやなら坊さんになればいいんだよ。

坊さんでのは絶対的な「個人主義」だ。
自らの理念に沿って、自らの修行をして、
自らの解脱を促して、
ただそれだけを生の価値とする生き方だ。

圧倒的な個というものは、
得てして全体主義に陥りやすい。
その個は他を意識しない固体であるから。
その集合体は常に個であり、個ではない。
そういう空間となる。

それがいいんじゃないの。
いじめがいやならなさ。
まぁその為には離俗しなきゃいけないから本末転倒か。


なんか情けないよねぇ。
今の日本はきっと、
社会に虐げられてきた弱虫が作り出したものなんだろうな。

強者の独裁に反発してるだけなら良かったのに。
負けず嫌いさんめ。
お前ら馬鹿にしてるオタク世界と同じ構造じゃないか。

認められない社会に辟易して、
自分たちだけの世界をつくろうなんてね。
出来るやつの足を引っ張れ、
出来んやつには哀れみを施せってなもんですね。

そんな世界やだな。
posted by dd at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想の揚げ足 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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