2007年11月28日

書き方、はじめ

やあ。
久しぶりに連続で書いてみようと思っています。

書けるかどうかわからんけどな。
最近、そのあたりのバイタリティが無くなってきてるように思えてさ。


そして、
携帯の人には全く関係のない話ではなるんだけど、
僕のブログはおおまかにジャンルで分類されているんだね。

なんでこんなことを言うかというとだね、

予想はしていたんだけど、
『「カミサマになろう」が見にくくて仕方がありません』
というお便りを結構な数頂いたわけで。

もしかしたら、
「見にくい」と「醜い」を掛けて、
僕のことを上品に揶揄しているのかとも邪推したんだけど、
どうやらそうでもないらしい。


まぁ今まで何回も言っている事なんだけど、
携帯からの人は厳しいですよ、ええ。
でもそんな事は俺じゃなくてSeesaaさんに言って下さいよ。

だから、
僕的にはタグを分けて整理するとか、
まぁ最大限努力はしてるんですよ。

なんで、俺の作文を読んでいただくなら、
極力PCからのほうがいいと思いますよ。
タグは「自作プロット」に入ってますから。

他にも色々分けてはいるんだけどね。
まぁ後は飾りみたいなもんです。

ということで、
ケータイからPCへの変更のお勧めでした。

僕は決して「ケータイ小説」とかいう馬鹿げたジャンルに
飛び込むことはないので。
そこらへんは勘弁してくださいな。


さて、
今日のタグは「文学の揚げ足」ということですが。


久しぶりに面白い本に出会いましたよ。
やっぱり探せばいるもんだ。

まぁそりゃそうだよね。
俺より頭いい奴なんかザラにいるんだわ。
また最近天狗になりそうだったから良い刺激だった。

ちゃんと俺の悩みを踏まえて書いてある、
というか、その上できちんと答えを出している人だったから、
俺にとっては凄く貴重。
おがなんか是非読むといいと思うお。

今回読んだのは、
白石一文氏著の「僕のなかの壊れていない部分」
という作品です。

この人は、
まぁよく現代小説を読むような人なら聞いたことはある、
ぐらいの人なんだよね。

俺も名前しか知らなくて、
そろそろ昭和の大文豪たちの名作も飽和してきた中で、
何回も現代小説で失敗に失敗を重ねて得た良本。

これ読んでから他の人の作品なんか読んだら、
全部お遊戯にしか見えないよ、ほんとに。

テーマが生と死であったり、愛情の審議であったりとか、
そういう哲学?とはいかないまでも倫理学・自然学的だった、
というのもあるにはあるんだろうけれども、

文章一つ一つの重みが違うんだ。

とはいえ、京極先生のように一般の人が敬遠するような固さはない。
量も普通の文庫本と変わらないし、
普段本を読まない人だって、全然とっつきやすいんだよね。

それでも状況描写や内面描写、
それらがとても緻密。美しいとまでは思わないが。

しかし、何より一番は、
名作の中にしか現れない、あの緊張感!

そして、考え尽くされたゆえに反論できず、
自分の中の「確信」が徹底的に自分によって破壊される、
あの慟哭!驚嘆!畏怖!
そして、成長の感動!

それを持った作家がまだ存在したとは。
俺はもう驚きで、ほんとに。
現代小説家の(ごく一部の)人、生意気言ってすいませんでした。

あらすじを説明することはしません。
あんな完璧な本を上手く纏められないし、
僕が何かを言って、みんなに先入観を植え付けるのが怖いから。

最後に、
俺が感銘を受けたところを抜粋します。
正直、少し堅いところなんだけども、どうか敬遠しないでほしい。



しかし、僕は思う。見据えることなくして真実が掴めるはずがないのだ。(中略)僕が「誰だって仕方なく生きているんだ」と言ったときも、枝里子は「そんなことはないわよ」と即座に否定した。(中略)僕はいつも自分の言葉にそれくらいの責任は持っている。だが、枝里子の言葉には肝心のその責任感が欠けていた。だから、反論にもならぬ反論をしておいて、したり顔ですぐ笑ったり茶化したりする。そういう人のことを馬鹿というのに。(中略)僕はきみと寝ることで一体どうなるのだろうかと。僕たちは二人でいることで、生きる意欲やゆとりや安らぎや慰めを超えて、生きること本体の深い意味にどこまで近づくkとが出来るのだろうか。(中略)これは君が言うような選択の問題ではないんだ。選択する前の、もっと重要で根源的な問題なんだ。愛や憐みや労りといった人間的感情が入り込む余地のない、時間を超越した恐ろしく冷徹で無慈悲な問題なんだ。(中略)だが、彼女は何も応えてくれない。僕が知りたいと思う気持ちを彼女は共有すらしない。そのくせ僕の求めるものは僕のような単純なやり方では見つからないと断定するのだ。



かなり長くなりましたが、
他にもいっぱい抜き出したいところがあるぐらい。

この「僕」の問いかけに対する答えも、
じつはこの本の中にやんわりと示されています。

それは、
見てからのお楽しみ。
posted by dd at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学の揚げ足 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月30日

慙愧

三寒四温。尾長と目白。狂乱に梅。
春の代名詞とも云われるものは意外と良く目に付くものである。
厳密に云えば、これらは春の名詞と銘打つにはやや見当違いであろう。どれも春といえば春であろうし、春でないといわれれば春ではないような気もする。
何だかこそばゆいような、それでいて、早く桜が見たいものだ、とか云いながら雪解けを心待ちにする。晴れ晴れとしている。
愚妻はそれを善しとしない。
またァ春になると蟲が湧くンですもの、とか云い云い気味悪がっておる。
情けないことだ、と思う。
グロテスクな生き物など、単に其れを見るに伴う生理感を抱いていないというだけで、実際にはそれを食する人間も、愛する人間もいるのだ。
鮑の蒸し焼きなどぺろりと平らげる癖に、傲慢が過ぎるのではないかと私は思う。ツーフラの文字列であったって、好む人間がいるから存在するのであって、私などはこの乱文ですらその書体は御免蒙りたいものである。
私がそんな風にたしなめると、愚妻は口を尖らせて反論する。
それに猫だって、厭らしい。分別がなくッて見てて気持ちが悪いったら。
獣の類にそんなことを云っても始まらないが、それには概ね私も同意である。何と言っても決まりが悪い。人がのんべんだらりと普段感じもしない風情に浸ったりして居るのに、拍子抜けである。



飽きた
posted by dd at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学の揚げ足 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月24日

新婦蜘蛛の理について(ネタバレ注意)

「じょろうぐものことわり」と読みます。
これはおじさんも読めんかった。

これもまた例によって例のごとく、
二週間ぐらい前に読みきったんだけど。

レポートやらで文字を書きすぎたってのもあるし、
もう一回読み返したりしてたらこんな時期になりました。


誰かわからんけど、
俺の書評をよかったと言ってくれたりするわけで。
大学の友達も、あれを見て京極堂シリーズを読んでみてる、
ってなことを言ってくれたもので。嬉しいね。


と、いうことで

今回はネタバレ、一応しないつもりで書きたいと思います。



さて、
京極堂シリーズ第五弾の今回は、

99点。完敗。そして惜しい。
この小説は絶対に読むべき。

分厚さ的には1400P近くあって、
やっぱり敷居が高い感じなんだけど、
絶対にその時間に損はない。


言うなれば、
この作品は京極夏彦の新境地を開いた作品であり、
また大団円を迎えた、そうとも言える作品である。

「あなたが蜘蛛だったのですね」
という作中の主人公、京極堂の驚くべき台詞から
この小説は始まる。

この作風自体は、現代小説ではよく見られるものであるが、
あの京極夏彦−−考えさせる作家−−が、
こういった手法で魅せるのは新境地であるといって差し支えないだろう。

特に、
彼のような理詰めの小説家にとってはそれは命取りでもある。

なぜなら、
犯人という「結末」がいるのかいないのか。
「解決」という自称が存在するのか否か。
そこすらも読者に不和感を与え、
まるで無関係な登場人物の一人のようにしてしまうのが
彼の今までの味だったからである。

この展開は、
その前提とされる暗黙視を見事に破壊した。
それを目にしてしまうと、愛読者には物足りない、というか
理解するのを怠けてしまう恐れがある。


しかし、彼の手法は見事なものだった。
物語の終焉に近づくにつれてどんどんと引き込まれていく。
そして結論を迎えたとき、冒頭に舞い戻ってしまうのだ。

幾重にも重なった八角形の巣の中心が物語の核心であり、
また始まりでもあったのだ。
「蜘蛛」の題名にもはっきりと頷けるところである。


彼の新境地はそれだけに留まらない。
その最たるものは「ヒロイシズムの崩壊」である。


京極堂という人間。
遍く真理を説き、獏望とした知識を持ち、言の葉の呪を使う男、
彼はいかなる事件をも総て解き明かしてきた。
愛読者はそれに慣れてしまっていたのだ。

それに京極氏は鉄槌を下す。
「僕は関わらない」
京極堂はそう読者に言い放つ。
「わからないことが多すぎる」

今まで絶対の価値基準であった物が崩れたとき、
読者は忘れかけていた探究心を呼び覚まさせられる。
これまでに飼い慣らされた「絶対者」としての立場を、
残酷にも突き放すような真似をしでかした。

「僕は傍観者であるべきなのだ。僕の所為で人が死ぬなんてやりきれない」
そう言って京極堂は最初から事件に関わることはしない。
「僕が出張った所で、事件は終わらない」
それによって読者は、完全に信奉していたヒーローを失うことになる。

その筆致と発想はとても効果的だった。
読者はまたも頭を使わざるを得なくなったわけだ。
冒頭のヒントはそのために用意されたものだったのである。

最初に持っていたはずの探偵、古本屋への羨望、
そして不可思議な感覚。それを思いださせるのにも十分であった。

より強化されている疾走感も忘れてはいけない。
揉み合いのシーンのリアリティと壮絶さ、
まるで死の危険が真隣にいるかのような錯覚に襲われる。


ただ唯一残念でならなかったのが、
あまりにも表層的すぎた、という部分であろう。

京極堂の衰退も、驚愕の展開も、
得てしてシリーズを通して
京極堂に親しんでいるものへ向けられているものなので、

よく理解をせずに読む者にとっては、
ただ単に「簡易になった」と思われるだけなのではないか、
という不安である。

しっかりと作品を噛み締めていれば、
この作品の異端さ、金字塔としての存在、
それを計り知ることができるのだが。

果たして、それを感じる読者が如何ほどに存在するか。
「自分で考えさせる」という今回の方針が、
「ただ事実を流し読むだけ」といったミスリードを招かないか。
それだけが鬼門であろう。


つまり、
この作品は敷居を低くした様相を呈しているものの、
実は自己の思考を活用しなければ楽しめないものとなっており、
京極堂シリーズの最難関と言っても過言でない。

しかし、これを楽しめるのであれば、
理解を最大限に楽しんでいる、
思考を張り巡らせ知識という財宝を得た、
というような自負を持てるのではなかろうか。

是非読んでもらいたい。
お勧めの一冊です。
posted by dd at 15:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 文学の揚げ足 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

ゲシュタルト崩壊

まぁみんな名前だけは知ってるとかかもね。
それなりに有名だと思う。
理系とか医学部系の人の中では常識なんだろうか。


知らない人もいるだろうから簡単に説明すると。
人間の目ってのは動作のあるものに対する感覚は過敏なんだけど、
静止しているものに対する認識は恐ろしくないって奴。

例えば、
目の前にあるものを、そこにあるのが当然だと思ってると
ある程度見つけられなかったりとか、
同じ字をずーっと見てると、文字ではなくて、
線の組み合わせみたいにしか見えなくなったりすること。

後者のほうなんか結構あるんじゃないかなぁ。
小学校の書き方の授業とか。習字とか。
何回も同じ文字だけ書いて、それを眺めてみたりすると
なんか違和感を覚えたこととかない?

心理学にもゲシュタルト心理学とかあったね。
ヴーツ?だっけ?か誰かが提唱してさ。
主張はなんとなくわかるけど、
何だかニヒルすぎて俺は好きじゃなかった記憶がある。


ところで。
人間の脳にも心にも「止まってるもの」を
受け入れないきらいがあるように。

文学にも「止まってるもの」を受け入れない、
むしろ、常に流動がある文字、それを文学というのだと思った。ふと。

人が造りしモノだからなんだろうね。
そう考えると面白い。

最近、暇でしょうがなくて色んな本を読んだ。
菊池寛から宮部みゆきから(俺はきらいだけど)京極から。
ここ三日で5冊読んだかな。
流石に活字はもうお腹一杯だけど。


それで読み続けるうちに気付いたんだけど、
本当に面白い文学作品というものは、
まるで呼吸のようになだらかだ。

呼吸という感覚がもっとも相応しい。
流れる文字の列を「、」までゆっくりと動き、
「。」でその終結を見届けた後、すうっと反芻し咀嚼する。
しかしそれは僕らの好奇心という欲望を釘付けにして、
また次の一息へと繋がらせる。

呼吸をしているときにそれに気付かないように、
読んでいる最中にそれに気付くことはない。


だから粗筋というものに皆騙される。
たった数行の文章が途切れるはずがない。
それを見て「あ、面白そう」なんて言って、
買ってから読まない。俺もそうだけど。

読書家の人たちが立ち読みをしてから本を選ぶのは、
きっと無意識に「流れ」を探っているのだろう。


教科書も、
参考書も、
専門書も、
新聞ですら、
読み物として興味を引くものは少ない。

それは情報を理解させる為のもので、
「読ませる」ことを第一としていないためだ。


そう考えると、
俺が現代の作家にあまり惹かれない理由に気付いた。

最近の作家は、情報を詰め込むことが乍本だと思ってる。
抒情詩なんてロマンたっぷりなもの書いてたって、
せせらぐ情景を描写しすぎてしまえば、
読者は脳裏のダムでそれを堰き止めるだろうに。

想像力という可能性を止める犯罪者だ。

昭和の作家はいい。
どれだけ写実主義に傾いている作家だって、
美しい花の記述は、あくまで美しさに磨きをかけるだけのものだ。
そのお陰で僕らは思い思いにその花を心に描くことができる。

作家、という職業が最近恵まれすぎているのかもしれない。
映画化なんて。無理な話だ。
昭和の作品だってそのお陰でボロボロになる。



俺がそれを動かせるだろうか?


今は何よりもそれが気に懸かる。
書けば書くほど、
どんどん汚されていく気がする。

どうして、
どうしてだろう
posted by dd at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学の揚げ足 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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